ラエ・サラモアの攻略
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「ラエ・サラモアへの空襲」の記事における「ラエ・サラモアの攻略」の解説
攻略に先立ち、日本軍空襲部隊(第二十四航空戦隊)は連日のようにポートモレスビーほか、ソロモン諸島やニューギニア島東部各地の航空基地、珊瑚海に対して偵察と爆撃を繰り返したが、地上砲火以外に大した反撃はなかった。 攻略部隊は3月3日と4日に総合訓練を実施し、ラバウルに集結した。3月5日13時にSR攻略部隊はラバウルを出撃し、支援部隊も同日16時に同地を出撃した。船団の上空護衛は聖川丸水偵と海軍基地航空隊が担当した。敵襲もなくニューブリテン島南岸を西航したのち、3月7日にSR攻略部隊は上陸予定地点にむけて分散した。スコールに悩まされつつ同7日午後10時30分にサラモア東方泊地に進入した。3月8日1時に陸軍部隊がサラモア沖に、2時30分には海軍部隊がラエ沖に到着してそれぞれ上陸を開始し、7時過ぎまでにはラエおよびサラモアの航空基地・市街・電信施設を無血占領することに成功した。連合軍守備隊はワウ方面に向けて退却し、住民もラバウル攻略時にワウやポートモレスビーに退避していた。 ラエ方面では荒天で大発動艇の大部分が座礁するなどアクシデントがあり、梶岡はウェーク島の戦いの経験から駆逐艦での大発動艇の引き下ろしを命じた。また、これといった港湾施設もないラエでの荷役作業の終了見込みは「金剛丸」が10日、「天洋丸」が11日、「黄海丸」が12日とされた。サラモア方面でも荒天で上空掩護に欠く有様で、梶岡(および南海支隊派遣参謀)は8日夜には戦闘機隊を至急ラエに派遣するよう打電した。双方の航空基地には爆破孔あったが、8日午後までには補修も終わり、いつでも使用可能な状態とした。 なお、第六戦隊司令官五藤存知少将を指揮官とする支援部隊も3月5日16時にラバウルを出撃し(前述)、船団の掩護に従事した。ニューブリテン島南方を行動したのち上陸成功の報に接して反転し、予定どおりブカ島クインカロラ付近占領のため同方面に移動した。
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