ライスラーをめぐるその後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:42 UTC 版)
「ライスラーの反乱」の記事における「ライスラーをめぐるその後の動き」の解説
死刑の執行は、ライスラーとミルボーンを殉教者に仕立て上げ、ライスラー支持派と反対派の間の深い亀裂は少しも小さくならなかった 。支持派は代表者をロンドンに送り、最終的には彼の息子のジェイコブまで送って、政府の不正を糺すよう請願した。1692年の1月、彼らの請願が国王の耳に入り、4月には商務院が、受刑者への恩赦を勧告し、5月13日には女王メアリが後任総督のベンジャミン・フレッチャーに、他の6人の受刑者を赦免するように命じた。 その前年の1691年の7月23日、総督スルーターは急死しており、検死の結果、死因は肺炎であったにもかかわらず、あちこちで疑惑の目で見られ、毒を盛られたのだなどという噂もあった。彼が残した手紙には、死刑を執行するように周囲の勢力から「圧力をかけられた」と書かれていた。彼の任期の他の行為についても意見がとびかった。彼は、軍に払われるべき1,100ポンドを着服し、後任の総督となったインゴルデスビーに告訴されていたとも、拿捕船を強奪して、任期中に総督府で競売にかけ、再びそれを売り飛ばしたとも言われた。 ライスラー支持派の一人が、イングランドに行く途中でボストンに立ち寄ったところ、マサチューセッツ湾直轄植民地の新総督、サー・ウィリアム・フィップスから支持を要請された。ロンドンのマサチューセッツ代表部は、その当時、ライスラーの相続人代理として、市民権停止の破棄と、差し押さえられた財産の、遺族への返還の仕事に携わっていた。1695年、マサチューセッツの支持者サー・ヘンリー・シュルストとサー・コンスタンティン・ヘンリー・フィップスの助力を得て、イングランドの下院でこの法案が通った。上院でもこの案は通ったが、反ライスラー派の議員たちが、この法案を首尾よく下院の委員会に差し戻した。ジョセフ・ダドリーは広範囲にわたる聞き取りによって、自らの主張を数ある意見の中で通すために、ドイツ系のライスラーが不相応に権力を握ったとして告訴したが、法案はついに1695年5月2日に可決され、翌日国王の承諾を得た。 しかしながら、ライスラーの相続人が相続すべきものを受け取れたのは、1698年になってからだった。初代ベロモント伯爵リチャード・クートが、1695年にニューヨーク総督に任命されて、その年に就任した。この人物は、ライスラー支持で、イングランド議会での討論で忌憚なく物を言った。在任期間中(1701年在職中に没)政府内で、ライスラー支持派を要職に据えた。クートは、遺産を戻すように監督をし、ライスラーとミルボーンの遺体を、オランダ改革派の教会の中庭に埋葬し直した。 ライスラーの支持派と反対派の両派閥は、ニューヨーク植民地で争いを続けていたが、1710年にロバート・ハンターが総督として就任して後、ライスレリアン(ライスラー支持派)はイギリスのホイッグ党と、反ライスラー派はトーリー党との関係を深めるようになって行った。ハンターは概してライスラーに好意を持つホイッグであり、両派閥の間の敵意を和らげることが可能だった。
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