ユニヴァーサルからマキノへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 15:14 UTC 版)
「岸和田電気館」の記事における「ユニヴァーサルからマキノへ」の解説
1917年(大正6年)、大阪府泉南郡岸和田町北町28番地(現在の同府岸和田市北町7番地10号)に電気館として開館した。同年12月発行の『キネマ・レコード』には、同館の館名が掲載されている。当時の岸和田町内には、1913年(大正2年)1月に開館した岸和田館が、北町に隣接する堺町にすでに存在していた。同館の公開当時の詳細は不明であるが、同館の立地した北町は、紀州街道に面した商業地区であり、鉄道開通や紡績工場の興る以前から発展していた地区であった。1920年(大正9年)代に入ると、下野町に吉野倶楽部も開館しており、1922年(大正11年)11月1日、岸和田町は市制を施行して岸和田市になった。1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』には、同市内では同館と吉野倶楽部の2館のみが記載されており、同館ではユニヴァーサル映画が日本で配給するアメリカ映画を、吉野倶楽部では帝国キネマ演芸および東亜キネマの作品を上映していた。 昭和に入ると、岸和田紡績(現在のユニチカ)の社員寮敷地に建てられた泉座(支配人・溝畑久四郎)、同館に近い欄干橋の旭座(朝日座とも、経営・室田徳松のちに古南米蔵)でも映画を上映し始め、松竹キネマの上映館であるこれら2館のほか、同市内では、岸和田館が日活、吉野倶楽部が帝国キネマ演芸、そして同館はマキノ・プロダクション作品を上映した。1929年(昭和4年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』によれば、当時の同館の経営者として西田源次郎の名が記されており、支配人は西田が兼務していた。1930年(昭和5年)には泉南郡春木町(現在の同市春木泉町)に春陽館、1935年(昭和10年)1月には同市内北町に山村劇場(のちの岸和田東映劇場)、1939年(昭和14年)2月には同市内本町に東宝映画直営の岸和田東宝映画劇場が開館している。 同市に近く、かつ古くから栄えた同府堺市には、同館よりも早い時期に電気館(のちの堺電気館、堺市三国ヶ丘御幸通19番地)が開館していたが、これを経営する泉谷虎吉が同館を傘下に収めたため、1940年(昭和15年)前後の時期に同館は、第二電気館と改称している。1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』には、同館の興行系統については記載されていない。当時の同館の経営は泉谷虎吉、支配人は小林茂、観客定員数についての記載はない。
※この「ユニヴァーサルからマキノへ」の解説は、「岸和田電気館」の解説の一部です。
「ユニヴァーサルからマキノへ」を含む「岸和田電気館」の記事については、「岸和田電気館」の概要を参照ください。
- ユニヴァーサルからマキノへのページへのリンク