メーカーとの共同研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 15:29 UTC 版)
「東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯」の記事における「メーカーとの共同研究」の解説
1956年6月、関電に2ヶ月の遅れを取りながらも、東電はメーカーと共同研究に乗り出し、そのパートナーとして東芝グループ三社(東芝、石川島播磨重工、石川島芝浦タービン)と日立と組み「東電原子力発電共同研究会」(TAP)と称した。研究は期毎に区切ってテーマを高度化させていった。 第1期はいきなり実用炉を設計するのではなく、1万kWの発電炉の設計研究を取り上げ、要素別に分科会を形成した。当時はメーカー・電力各社とも端緒についたばかりの段階であるが、メーカーで頭一つ抜け出ているのは日立で、同社の拠点は中央研究所であった。東芝は他社より遅れており、第1期では炉内構造物の多さゆえ核計算が複雑になる軽水炉を避け、重水利用の均質炉を選択したほどであった。しかし、このことが却って東電と一緒に勉強していこうという連帯感を生んだという。日立は第1期より多少リアリティには欠けるもののBWRを設計した。1957年1月には各電力会社が設立したメーカーとの共同研究成果を一堂に集めて日本学術会議主催で第1回原子力シンポジウムが開かれ、TAPはBWRの研究成果を発表した。 第2期研究としては、BWRのドレスデン発電所(en)を東芝と、PWRのヤンキーポイント発電所(en|en)をモデルに実施した。この頃になると東芝も実力をつけて研究成果を出していたが、裏を返せば各社のレベルの差とはその程度のものだった。 第3期研究では原電が手掛けたコールダーホールについても日立と研究したが、当時からあまり興味を抱いていなかったという。 第4期では立地点に要求すべき地形と建設方式の研究を開始した。建設方式としては、地下式、崖を切り崩した半地下式、台地式の3つを俎上に上げた。 この他、三井、東芝グループは1958年、日本原子力事業を設立し、日本国内の民間企業唯一のNCA(臨界実験装置)を川崎市内に設置して実験を重ね、本発電所の建設に反映していったという。 なお、TAPの頃から東芝で原子力開発に従事していた深井佑造によると、GE社は1954年の米原子力産業会議でBWRの優位性に言及して以来、アルゴンヌ国立研究所よりS・ウンターメイヤーを招聘、BWRの開発に努め、1958年よりBWRの開発戦略として「オペレーション・サンライズ」をスタートさせ、3段階のステップを経て1970年に大容量経済性を達成したBWRプラントを建設することを目標とし、経済性での対抗目標は米国の石炭火力であった。同時期にAECにおいても経済性目標の達成時期を1970年とする旨が提案されている。 田中直治郎の回顧によるとTAPは1962年3月まで5期に渡って続けられ、関わった人数は各社約300名、合計約900名だったという。
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