ムワッヒド朝によるアラブ化(13世紀 - 14世紀)
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「西サハラの歴史」の記事における「ムワッヒド朝によるアラブ化(13世紀 - 14世紀)」の解説
ムラービト朝統治下にて、職業戦士達はジハードをムジャーヒディーンとして戦った。ザーウィヤで団結した人々と同じように、ムジャーヒディーンは職業に基づく集団を形成し始める。これはMaqilアラブ部族の到来によって加速した。 13世紀と14世紀の間に、アラブ部族はフェザーン (リビア)、イフリーキヤ (チュニジア)、トレムセン (アルジェリア)、Jbel Saghro (モロッコ)、サギア・エル・ハムラ(現西サハラ)などへの入植を行うため、サハラの北縁にそって西へと移住をしていた。 Maqil(英語版)アラブ人がサハラ西部に到達したとき、ムジャーヒディーンはアラビア化する傾向にあった。ザヴィア部族はベルベル人の特徴を保持し続ける一方、戦士達はできる限りアラブ化しようと試み、部族の祖先の系譜を構築しようと、Maqil(英語版)のメンバーに接触し、部族をアラブ化した。このような例としては、 NyarzigはOuled Rizgとなった、ということが挙げられるだろう。しかし、自身をアラブと呼ぶ権利は、いくつかの部族に制限されており、可能な部族、Banu Hassan部族(英語版)もしくは簡単にHassan、は次の世紀にわたっても戦士階級として機能している。 アラブ化したベルベル人はサハラのオアシス居住地を支配し、サハラの奴隷貿易において重要な役目を担っていた。彼らは既に土地を通過するものに重い税を課す一方、護衛とラクダ、物資を供給している。サハラ交易が増加したとき、奴隷倉庫とキャラバンの中継となる安全な停留場とともに、出発/到着施設を作った これらの施設では、サハラ以南の地域からエジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコへの通行を監督していた。また、トンブクトゥは4つのルートの結節点となっており、またウアダン、イジリ(Idjil) (Atarの近く)、Azougui、Araouane、タウデニ、後にティンドゥフなどは重要な隊商の停泊地となっていた。同じ時に、西サハラに留められていた奴隷の数が急激に増加している。 Maqil部族は時々、ベルベル人たちと結婚を行った。この地域のArabo-Berber people[訳語疑問点]はサハラウィー人(英語版)として知られている。現在において、Banu Hassan部族(英語版)について述べるときに使われる他称は稀にMoorsとなる。アラビア語の方言であるハッサニヤ語は西サハラとモーリタニアにおいて、支配的な母語となった。ベルベル人の語彙と文化的特徴はサハラウィー共通のものとなったにも関わらず、今日も多くのサハラウィーはアラブの系譜を主張している。
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