ムワッヒド朝の衰退とイベリア南部の征服とは? わかりやすく解説

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ムワッヒド朝の衰退とイベリア南部の征服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「ムワッヒド朝の衰退とイベリア南部の征服」の解説

ラス・ナバス・デ・トロサの敗戦の後、ムワッヒド朝ゆるやかに衰退始めた1224年ユースフ2世死去すると、後継者争い勃発、3人のカリフ擁立され、内乱状態に突入した。同じ頃、モロッコでもベルベル人による反乱発生していた。これらが原因となり、間もなくムワッヒド朝イベリアにおける支配力喪失し群小国が林立するようになったキリスト教勢力はこの混乱好機見て南方への侵攻再開した1230年レオン王国ポルトガル王国協同してイベリア南西部侵攻しレオンメリダバダホス攻略ポルトガルエルヴァス占領したポルトガルはさらにアラゴン王国協同しバレアレス諸島攻撃1235年までにこれを制圧し獲得した諸島両国分割された。同年末、レオン王アルフォンソ9世没すると、その息子カスティーリャ王フェルナンド3世レオン王国継承両国統合され以降は単にカスティーリャ王国とのみ呼ばれるようになった版図を倍化させたカスティーリャ王国攻勢強化し1233年ウベダ攻略1236年6月29日コルドバ占領した1243年初頭ムルシアカスティーリャ降伏し、夏までにカルタヘナロルカ攻略した一方アラゴン1238年バレンシア制圧し1248年にはハティバ攻略した。この時点グラナダ以東は、全てキリスト教勢力のものとなったカスティーリャアラゴン征服地の分割に関する協定(アルミスラ条約)を結び、それぞれの分け前受け取った1246年カスティーリャセビリア攻囲したセビリア2年間にわたる攻囲戦戦い1248年11月23日開城した。セビリア制圧したカスティーリャはさらに南下し1251年までにジブラルタル海峡達した。この時点で、グラナダナスル朝除きムスリム勢力イベリア半島から消滅していた。そして、ナスル朝カスティーリャ臣従誓っていた。敵対的ムスリム勢力イベリア半島から排除するのがレコンキスタ目的であるならば、事実上この時点レコンキスタ終了していた。

※この「ムワッヒド朝の衰退とイベリア南部の征服」の解説は、「レコンキスタ」の解説の一部です。
「ムワッヒド朝の衰退とイベリア南部の征服」を含む「レコンキスタ」の記事については、「レコンキスタ」の概要を参照ください。

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