ムワッヒド集団誕生から王朝へとは? わかりやすく解説

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ムワッヒド集団誕生から王朝へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:49 UTC 版)

ムワッヒド朝」の記事における「ムワッヒド集団誕生から王朝へ」の解説

ムワッヒド朝起源は、ベルベル人のマスムーダ族出身イブン・トゥーマルト開始したイスラム改革運動にある。彼は現在のモロッコ南部アトラス山脈出身で、初め村のモスク読み書き教わり続いてマラケシュ・コルドバで学び12世紀初頭東方への遊学マッカメッカ巡礼出た。そこでムラービト朝治下マグリブイスラム教改革する必要を感じたイブン・トゥーマルト帰郷すると、ムラービト朝公定法学派であるマーリク学派属すイスラム法学者ウラマー)を痛烈に批判した1121年には故郷で自らが救済者マフディー)であると宣言してムラービト朝対す反乱開始した。トゥーマルトは神の唯一性(タウヒード)を重視する教義説き、そこから彼に従う勢力は「タウヒード信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれた。 トゥーマルトが1130年没すると、弟子アブドゥルムウミンまたはアブド・アルムーミン(以下「アブド・アルムーミン」と表記)が後継者に就き彼の孫で3代目ヤアクーブ・マンスールは自らをカリフなぞらえてカリフ称号であるアミール・アル=ムウミニーン信徒たちの長)を指導者称号とした。アブド・アルムーミン以降ムワッヒド集団彼の子孫がアミール・アル=ムウミニーンとして後継者地位継承する王朝へと変容するが、ムワッヒドの名がそのまま王朝名として使われることになる。 余所者のアルムーミンがムワッヒド集団従えたのは、師であるトゥーマルトの出身部族マスムーダ族を上手く懐柔したからであり、彼の死後後継者争い分裂するマスムーダ族の支持取り付け、トゥーマルトの後継者の座を獲得してカリフ名乗り実現息子自分後継者据えたムワッヒド王朝まで作り上げた代償としてアルムーミンはマスムーダ族に便宜図り王朝で高い地位与え軍事力背景にしたマスムーダ族有力者長老シャイフ)たちと協調しつつ牽制する困難な政権運営余儀なくされた。彼以後カリフ自家の人間サイイド)を各都市太守任命しながらシャイフ補佐に置き、両者バランスを保つ政策取ったが、やがて権威分与されたシャイフたちはムワッヒド朝にとって大きな災いとなっていった。

※この「ムワッヒド集団誕生から王朝へ」の解説は、「ムワッヒド朝」の解説の一部です。
「ムワッヒド集団誕生から王朝へ」を含む「ムワッヒド朝」の記事については、「ムワッヒド朝」の概要を参照ください。

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