ムワッヒド集団誕生から王朝へ
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「ムワッヒド朝」の記事における「ムワッヒド集団誕生から王朝へ」の解説
ムワッヒド朝の起源は、ベルベル人のマスムーダ族出身のイブン・トゥーマルトが開始したイスラム改革運動にある。彼は現在のモロッコ南部アトラス山脈の出身で、初め村のモスクで読み書きを教わり、続いてマラケシュ・コルドバで学び、12世紀の初頭に東方への遊学とマッカ(メッカ)巡礼に出た。そこでムラービト朝治下のマグリブのイスラム教を改革する必要を感じたイブン・トゥーマルトは帰郷すると、ムラービト朝の公定法学派であるマーリク学派に属するイスラム法学者(ウラマー)を痛烈に批判した。1121年には故郷で自らが救済者(マフディー)であると宣言して、ムラービト朝に対する反乱を開始した。トゥーマルトは神の唯一性(タウヒード)を重視する教義を説き、そこから彼に従う勢力は「タウヒードの信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれた。 トゥーマルトが1130年に没すると、弟子のアブドゥルムウミンまたはアブド・アルムーミン(以下「アブド・アルムーミン」と表記)が後継者に就き、彼の孫で3代目のヤアクーブ・マンスールは自らをカリフになぞらえてカリフの称号であるアミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)を指導者の称号とした。アブド・アルムーミン以降、ムワッヒド集団は彼の子孫がアミール・アル=ムウミニーンとして後継者の地位を継承する王朝へと変容するが、ムワッヒドの名がそのまま王朝名として使われることになる。 余所者のアルムーミンがムワッヒド集団を従えたのは、師であるトゥーマルトの出身部族マスムーダ族を上手く懐柔したからであり、彼の死後後継者争いで分裂するマスムーダ族の支持を取り付け、トゥーマルトの後継者の座を獲得してカリフの名乗りも実現、息子を自分の後継者に据えたムワッヒド王朝まで作り上げた。代償としてアルムーミンはマスムーダ族に便宜を図り、王朝で高い地位を与え、軍事力を背景にしたマスムーダ族有力者の長老(シャイフ)たちと協調しつつ牽制する困難な政権運営を余儀なくされた。彼以後のカリフは自家の人間(サイイド)を各都市の太守に任命しながらシャイフを補佐に置き、両者のバランスを保つ政策を取ったが、やがて権威を分与されたシャイフたちはムワッヒド朝にとって大きな災いとなっていった。
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