ムジャーヒディーンとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:43 UTC 版)
「ムハンマド・オマル」の記事における「ムジャーヒディーンとして」の解説
アフガニスタン南部カンダハール近郊出身のパシュトゥーン人。一家は極貧の雇われ百姓であり、オマルの生誕前に父親を亡くし、生計はオマルが支えたとされる。 パキスタンカイバル・パクトゥンクワ州のイスラーム神学校(マドラサ)に学び、ソ連のアフガニスタン侵攻でムジャーヒディーンとしてゲリラ戦を行い、ムハンマド・ナジーブッラー政権と戦った。オマルは対ソビエト軍の戦いで4度負傷したとされる。1986年、カンダハール近郊の戦闘で右目を失い、クエッタのマドラサで過ごした。他のムジャーヒディーンとは異なりオマルはアラビア語を解したため、アブドゥッラー・アッザームの教えに感化されてマドラサでその思想を広めた。オマルはカラチに移り説教を始めるが、そこでウサーマ・ビン・ラーディンと初めて会っている。 1989年にソビエト軍がアフガニスタンから撤退を開始し、その後に勃発したアフガニスタン内戦で1992年にナジーブッラー政権が崩壊すると、オマルはカンダハールに戻りマドラサを設立した。
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