ミティラー美術館の設立とは? わかりやすく解説

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ミティラー美術館の設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 02:43 UTC 版)

長谷川時夫」の記事における「ミティラー美術館の設立」の解説

1970年代末に、月の姿の美しい「宇宙」、新潟県十日町市大池に、東京都台東区浅草より転居。そのころ新潟県十日町市大池北越急行ほくほく線開通以前であり、急激に過疎化近く有った大池小学校廃校となる。廃校に伴い十日町市当時計画していた大池地区再開発計画対し、池のコンクリート補強工事と、周囲アスレチックコーステニスコート造成する事項等に対し孤軍反対運動展開する。これ以降、彼は環境保護運動活動家に、名を連ねるようになった。またこのころ家族と共に、「心情的ベジタリアニズムメンバーとなった他方開発計画は、彼による、池の環境調査報告書提出賛助会員結成等による交渉手段によって、それが発表されてから1年後廃案となった。それと同時に大池小学校校舎は、彼の管理認められ、後にこの地を襲う新潟県中越地震まで、彼と家族事実上住居となったこの頃長女誕生した1982年5月インドから帰ってきた知人持参したインド民芸画を見てインド民俗学学芸員蓮沼ミヨ子協力のもと、住居である大池小学校跡にミティラー美術館開館。なおこのインド民芸画はもともと壁画で、インディラ・ガンディー元首相発案で、書き手インド貧し女性たち等に画用紙配り壁画画用紙書き直して固定し民俗画として蘇生するプロジェクトにより生み出され民芸全般の事である。ネパールからインドにかけての、インド細密画風の物が、日本ではよく見かけるものであろう。現在この美術館には、展示用だけで15000点の民芸コレクションがある。この間に、長男誕生した1983年中国東北部広西チワン族自治区少数民族文化出会い民族文化を今に伝え各種物品を、その4年後に、交渉の末借出し日本紹介その後中国インド等日本人精神文化影響与えた東洋各国の、民族文化日本への紹介対し力を出し続ける。特にインド古典舞踊民踊音楽のジャンルでは、彼が仲介者となりこれまでインド多数グループ来日し全国ツアー行なった。これらの功績により彼へは、1998年国際交流基金第14回地域交流振興賞を、2007年にはインド政府機関ICCR(インド文化関係評議会)等より日印交流年賞が授与された。

※この「ミティラー美術館の設立」の解説は、「長谷川時夫」の解説の一部です。
「ミティラー美術館の設立」を含む「長谷川時夫」の記事については、「長谷川時夫」の概要を参照ください。

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