ミティラー美術館の設立
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「長谷川時夫」の記事における「ミティラー美術館の設立」の解説
1970年代末に、月の姿の美しい「宇宙の森」、新潟県十日町市大池に、東京都台東区浅草より転居。そのころ新潟県十日町市大池は北越急行ほくほく線の開通以前であり、急激に過疎化。近くに有った大池小学校が廃校となる。廃校に伴い、十日町市が当時計画していた大池地区の再開発計画に対し、池のコンクリート補強工事と、周囲の林にアスレチックコース、テニスコートを造成する事項等に対し、孤軍で反対運動を展開する。これ以降、彼は環境保護運動の活動家に、名を連ねるようになった。またこのころ家族と共に、「心情的」ベジタリアニズムのメンバーとなった。他方開発計画は、彼による、池の環境調査報告書の提出、賛助会員の結成等による交渉手段によって、それが発表されてから1年後に廃案となった。それと同時に大池小学校校舎は、彼の管理が認められ、後にこの地を襲う新潟県中越地震まで、彼と家族の事実上の住居となった。この頃、長女が誕生した。 1982年5月、インドから帰ってきた知人が持参したインドの民芸画を見て、インド民俗学の学芸員、蓮沼ミヨ子の協力のもと、住居である大池小学校跡にミティラー美術館を開館。なおこのインドの民芸画はもともと壁画で、インディラ・ガンディー元首相の発案で、書き手のインドの貧しい女性たち等に画用紙を配り、壁画を画用紙に書き直して固定し、民俗画として蘇生するプロジェクトにより生み出された民芸画全般の事である。ネパールからインドにかけての、インド細密画風の物が、日本ではよく見かけるものであろう。現在この美術館には、展示用だけで15000点の民芸画コレクションがある。この間に、長男が誕生した。 1983年、中国東北部の広西チワン族自治区の少数民族の文化に出会い、民族文化を今に伝える各種物品を、その4年後に、交渉の末借出し日本に紹介。その後、中国やインド等、日本人の精神文化に影響を与えた東洋各国の、民族文化の日本への紹介に対し力を出し続ける。特にインドの古典舞踊、民踊、音楽のジャンルでは、彼が仲介者となりこれまで、インドの多数のグループが来日し、全国ツアーを行なった。これらの功績により彼へは、1998年国際交流基金第14回地域交流振興賞を、2007年にはインド政府機関ICCR(インド文化関係評議会)等より日印交流年賞が授与された。
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