ポルトガルでの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 17:43 UTC 版)
半島戦争は同時代におけるポルトガルの衝撃的な幕開けを表していた。リオデジャネイロへの宮廷の移転は、その後独立することになるブラジルの国家建設の始まりであった。宮廷、政府、陸軍からなる15,000人以上の人々がポルトガル艦船に乗り亡命できたことは、ブラジルにとってはおまけであり、ポルトガルにとっては見せかけの恩恵であった。なぜならば、それは独立へのエネルギーを解放したからである。不在間の王に指名されたポルトガルの知事には、フランスの侵略とイギリスの占領が続くために、僅かに影響していた。戦争大臣のミゲル・ペレイラ・フォルハスの役割は独特なものであった。ウェリントンは大臣を「イベリア半島でただ一人のまともな政治家」と見ていた。ポルトガル軍の参謀と55,000人の常備軍、50,000人以上の国民防衛隊「ミリシアス」と様々な数の郷土防衛隊「オルデナンサス」の(全体で10万を越えると目される兵力)創設を指揮した。1812年にロシアの宮廷大臣であるシュタイン男爵に送った手紙で、フォルハスは「焦土作戦」の採用が、ナポレオンの侵略を打破し領土守る唯一の方法として薦めた。ロシアのツァーリアレクサンドル1世は、ウェリントンのポルトガル軍戦略を模倣しナポレオンの大陸軍を飢えさせるために戦闘を避けるよう命令した。 フランス帝国との戦争で試練に晒され、訓練され、実戦経験したポルトガル本土残留の新しい階級層は、新生ポルトガル独立を主張する点で、本戦争における旧来の指導者層に多大な影響を与え、フランス革命に並ぶものでもあった。ベレスフォード元帥は1814年以後もポルトガル陸軍(隷下に160人ほどの英軍将校が中核となる)の司令官(国王がまだブラジルにいるので一種の植民地総督)として残留した。彼の元、ポルトガルの新政策が策定された。これはルソ-ブラジル連合王国のあり方、アフリカの植民地における奴隷供給問題、ブラジルの産業、ポルトガルとの交易など今後の国家計画が定まった。しかし、1820年までにこれら全てが破綻した。ポルトガルの半島戦争に参加した葡軍将校は、イギリス軍人を追放し、8月24日にオポルトで自由主義革命を開始した。ポルトガルにおける自由主義体制の樹立は1832年から34年の内戦終結後に結実されることとなる。
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