ポルトガルとローマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/21 09:09 UTC 版)
沈福宗一行は1681年12月5日にマカオから航海に出て、南洋各国を経由し、インド洋を横断し、アフリカの南端の回り道をして、1682年にポルトガルに接岸した。彼等は先ずクプレの出生地であるメヘレンを参観し、彼の親族を訪問した後に沈福宗はクプレの計らいにより初級の修道士を養成する神学校である——ポルトガルの首都にあるリスボン修練院(Novitiatus)に入った。彼は聡明で機敏であり、よく学んで科目を非常によく修めた。その後、沈福宗の教師のポルトガル名ミゲル・アルフォンソを取って、この名前も沈福宗のイギリス、フランス等の国での代名詞になった。但し、この名前は異なる国で少しばかり差が見られる。 まだリスボンで学習していた時、クプレは先ずローマに行って報告をし、ついでに教皇に中国語でミサを司式する許可を請い求めた。ローマ教皇は中国人がヨーロッパにいると知り、会見したいという意向を示した。そこで沈福宗はリスボンからローマに赴き、クプレと共に中国の文献をローマ教皇インノケンティウス11世に贈った。この書籍は後にバチカン図書館(Bibliotheca Apostolica Vaticana)に収められ、これは早期の中国語の蔵書でもあった。その後、沈福宗は学究を深める為にローマに留まった。
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