ポルトガルにおける奴隷の定義
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「ポルトガルの奴隷貿易」の記事における「ポルトガルにおける奴隷の定義」の解説
戦国時代に来航したポルトガル商人は主従関係などにより一時的にでも自由でない労働者を奴隷と考えており、ポルトガル商人の理解する奴隷には様々な労働形態があったことが指摘されている。 それでは彼らが日本人の奴隷と考えたのは日本のどのような身分の者であったのか。……『日葡辞書』をみると、奴隷を意味する criado, servo とか captivo の語は、Fudaino guenin(譜代の下人)、Fudaino mono(譜代の者)、Fudasodennno mono(譜代相伝の者)、Guenin(下人)、Xoju(所従)、Yatçuco(奴)等の語にあてられている。彼等が日本の奴隷と解した譜代の者とか譜代相伝とか称せられた下人や所従は、農業その他の家庭労働に使役されていたし、実際国内では習慣法上売買の対象となっていた。 — 人身売買 (岩波新書)、牧 英正、1971/10/20, p. 60 奴隷という用語が労働形態、社会集団を隠蔽することで、ポルトガル人が理解していた奴隷の概念の詳細が把握されてこなかった。 ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される。日本でポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会に存在した「下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる「年季奉公人」もまた、ポルトガル人の理解では、同じカテゴリーに属した。 — 日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話、東京大学史料編纂所 (著)、 中公新書、2014/12/19、p77-8. ポルトガル人は日本で一般的な労働形態である年季奉公人も不自由な労使関係として奴隷とみなすなど、多くの日本人の労働形態はポルトガル人の基準では奴隷であり、誤訳以上の複雑な研究課題とされてきた。ポルトガルでは不自由な労使関係、主従関係における従属を奴隷と理解することがあり、使用される傭兵や独立した商人冒険家も奴隷の名称で分類されることがあった。 またポルトガル人は日本の社会での使用人や農民のことを奴隷と同定することがあった。1557年、ガスパル・ヴィレラは日本には貴族と僧侶、農民の社会階層があると論じ、貴族と僧侶は経済的に自立しているというが、農民は前二者のために働き、自分たちにはごくわずかの収入しか残らない奴隷状態にあると述べている。コスメ・デ・トーレスは日本の社会について以下のように語っている。 (日本の社会において)使用人や奴隷は地主に仕え、ひどく崇拝する。なぜなら、どんな質の高い人でも使用人に不従順なところがあれば、殺してしまえと命令するからである。そのため使用人たちは主人にとても従順で、主人と話すときは、たとえとても寒いときでも、いつも頭を下げてひれ伏している。 コスメ・デ・トーレスは日本人の地主は使用人に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人が奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い、日本における農民等の使用人を奴隷と変わらない身分とした。 中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民と奴隷の区別をいっそう困難にした。
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