ホクレアの主な航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 10:20 UTC 版)
1976年 ハワイ・タヒチの間を、ミクロネシア連邦から招聘した航法師Paliuwのマウ・ピアイルック (Mau Piailug) を航海長に得て、近代的航法器具を一切用いないまま航海(復路は航法器具を使用)。ただし往路の船内で反乱が発生し、これに失望したマウ・ピアイルックはタヒチ入港前日にタヒチからの帰郷を宣言した。この時、反乱の中心となったのはバッファロー・ケアウラナ、ブギー・カラマ、ビリー・リチャーズの3人で、彼らはタヒチ到着後にハワイに送還された。しかし後に彼らはポリネシア航海協会と和解し、1980年にはホクレアのクルーを招いて盛大なルアウを開催した。なお、この反乱の原因としては先住ハワイ人系クルーと白人系クルーの対立があったとされているが、当時を知る先住ハワイ人系クルーによると、理由は定かでは無いが白人系クルーはきちんとした防寒着を持っていたのに対し、先住ハワイ人系クルーにはそういった装備が支給されていないなど、船上でのクルーの扱いが平等では無かったとされる。 1977年 ケアライカヒキ・プロジェクト。ハワイの古典フラの歌詞や地名を分析し、ケアライカヒキ海峡(ハワイ諸島西側)からタヒチ行きの航路(ハワイの東方沖まで出てから南下)に乗れるかを実験。 1978年 第2回ハワイ・タヒチ間航海。航海長はナイノア・トンプソン。出航直後に転覆し遭難。この遭難事故でクルーのエディ・アイカウを失う。 1980年 第3回ハワイ・タヒチ間航海。マウ・ピアイルックを再び招聘し、彼による訓練を受けたナイノア・トンプソンが航海長を務める。往路・復路とも航法器具を用いない航海に成功。 1985-87年 ヴォヤージ・オブ・リディスカヴァリー。ハワイ、タヒチ、アオテアロア(ニュージーランド)、クック諸島、タヒチ、ハワイの順に航海。ポリネシア人の意図的拡散説を実証。 1992年 ラロトンガ島で行われた太平洋芸術祭に参加。ハワイ、マルケサス諸島、クック諸島、ハワイと航海。 1995年 ハワイ・マルケサス諸島間を航海。復路は6艘の航海カヌーによる集団での航海。 1999-2000年 クロージング・ザ・トライアングル(ポリネシアン・トライアングルを閉じるの意)。ハワイ、マンガレヴァ、ラパ・ヌイ、タヒチ、ハワイの順に航海。 2004年 ナヴィゲーティング・チェンジ。北西ハワイ諸島往復。日本人クルーが初参加。 2007年 ミクロネシア・日本航海。ハワイ島のカワイハエから出航し、マーシャル諸島のマジュロ、ミクロネシア連邦のチューク、サタワル、ヤップ、パラオ連邦のパラオなどを経由して日本へ。日本では沖縄島、奄美大島、宇土、野母崎、長崎、福岡、新門司、屋代島(周防大島)、宮島、広島、宇和島、室戸、三浦、横浜に寄港。この他、祝島と鎌倉沖を表敬訪問、クルーは焼津にも足を伸ばした。内野加奈子という日本人クルーも参加し、三省堂のコミュニケーション英語1の教科書にその話が掲載されている。 広島観音マリーナに入港するホクレア。船長はナイノア・トンプソン。(2007年) 宇和島入港、宇和島湾をカマ・ヘレに曳航され入港するホクレア。船長はナイノア・トンプソン。(2007年) 横浜港、ぷかりさん橋に接岸する直前のホクレア。船長はブルース・ブランケンフェルド。(2007年) 2009年 前年に発表された世界一周航海プロジェクトの為の訓練航海として3月よりパルミラ環礁までの往復航海を開始。
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