ページ・スリー・ガールの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 00:16 UTC 版)
「ページ・スリー・ガール」の記事における「ページ・スリー・ガールの歴史」の解説
1969年、ルパート・マードックは沈滞していた「ザ・サン」を買収してタブロイド紙として再生させた際、3面に半裸の女性モデルの写真を掲載することによって発行部数を伸ばそうと考えた。最初のページ・スリー・ガールは1969年11月17日に登場した、ウーラ・リンドストローム (Ulla Lindstrom) である。彼女は1969年11月のペントハウス・ペットでもあった。リンドストロームはペントハウス誌にはヌードで登場したが、ザ・サンでは挑発的にボタンを外したシャツを着て、魅惑的なポーズをとっている。翌年の終わり頃まで、ページ・スリーの写真は挑発的ではあったが、ヌードではなかった。 1970年11月17日、編集長ラリー・ラム (Larry Lamb) は20歳のドイツ人モデル、ステファニー・ラーン (Stephanie Rahn) の「生まれたままの姿」の写真を掲載し、この日をタブロイド紙にとって記念すべき日とした。撮影は2003年までページ・スリー・ガールのカメラマンとして活躍したビヴァリー・グッドウェイ (Beverley Goodway) が行なった。ラーンは側面から撮られ、ヌードで座する彼女の乳房の片方は完全にあらわになっている。続く数年間、ザ・サンはより明確にトップレスのページ・スリー・ガールを登場させた。これらの写真が多くの論争を引き起こす間にも、ザ・サンは売上を伸ばし、1970年代中頃までには、イギリスで最も人気が高い新聞の1つとしての地位を確立した。ライバルのタブロイド紙、デイリー・ミラーとデイリー・スター (Daily Star) は、違う名前で同様のページを設けた。 ザ・サンのページ・スリーの写真は、通常は正統的な悩殺ポーズをとるモデルが掲載されるが、例えばウィンブルドン選手権の期間中には白いミニスカートを穿いてテニスラケット持つモデルが登場したり、チェルトナムフェスティバルの開催中は乗馬用鞭を持ち、ジョッパーズを穿いたモデルが登場するなど、時事的なスポーツイベントに連動させる事もある。1970年代から1990年代半ばにかけては、写真に添えられるキャプションは、モデルの実生活や関心事に関する、性的にくすぐられる駄洒落と性的にきわどいダブル・ミーニングで満たされていた。このようなキャプションは、1990年代後期からは単純にモデルの名前、年齢、出身地を並べただけの(例えば「キーリー、18歳、ロンドン出身」のような)ものに代えられた。スポーツ関連のコスチュームと小道具の使用も、この時期に大幅に減らされた。 1998年、ページ・スリー・ガールの後、ケイティ・プライス (Jordan) はブラサイズを81cmBカップからGカップまでアップする、数度にわたる豊胸手術を受けた。ザ・サンは豊胸された胸と自然の胸のどちらのモデルを好むか、読者に問う世論調査を実施した。読者が圧倒的に自然の胸を支持した結果を受け、ザ・サンは外科的に胸を変化させたモデルを「禁止する」方針を打ち出した。 1999年、ザ・サンはページ・スリー・ガールのウェブサイト、Page3.comを開設した。ウェブサイトにはタブロイド紙に毎日登場するページ・スリー・ガールの、新聞で発表された写真を含む最大4ポーズの画像がアップされる。また過去のページ・スリー・ガールを紹介するオンライン・アーカイブのメニューもある。 2002年以降、ザ・サンは毎年「ページ・スリー・アイドル」というコンテストを行なっており、イギリス中の女性がページ・スリー・ガールのモデル契約を望んで写真を提出することができる。この結果は公開投票によって決定される。2004年のコンテストは18歳のキーリー・ヘイゼル (Keeley Hazell) が制した。彼女はその後イギリスのトップ・グラマー・モデルとなった。 2003年、ジュリアン・ジョーンズはページ・スリー・ガールを取り上げた『The Curse of Page 3』というドキュメンタリーを製作した。
※この「ページ・スリー・ガールの歴史」の解説は、「ページ・スリー・ガール」の解説の一部です。
「ページ・スリー・ガールの歴史」を含む「ページ・スリー・ガール」の記事については、「ページ・スリー・ガール」の概要を参照ください。
- ページ・スリー・ガールの歴史のページへのリンク