ペンと米谷美久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/20 01:08 UTC 版)
最初の「ペン」が世に出た経緯は、後年、オリンパスの取締役まで務めた技術者の米谷美久が、上司から「6000円で売れるカメラの開発」という課題を与えられたことに始まる。1958年7月1日から設計に着手した。 価格6000円は、当時の日本製カメラとしては相当な低価格設定であり、通常であれば大衆向け製品と割り切ってグレードの低いレンズに簡素なメカニズムの組み合わせとし、性能面ではそれなりに低い水準で妥協しなければならないところであった。だが米谷は、大衆向けカメラであっても安易な妥協設計を採るべきでないと考え、「ライカのサブカメラとして使える小型カメラ」という野心的コンセプトを打ち出した。 ドイツのエルンスト・ライツ社(現ライカ)は第二次世界大戦前から高性能な35mm版カメラの「ライカ」を製造販売し、世界的に35mm版カメラのベンチマークとしての地位を得ていたが、1954年には設計を一新した戦後型の革新作「ライカM3」を発売し、レンジファインダー型カメラの一つの完成形を示して、市場に衝撃を与えた。1950年代後期、各国のカメラメーカーは高級機・大衆機の別なく程度の差はあれどM3のメカニズムを研究、そのシステムを取り入れようとしていた。 米谷は1956年にオリンパスに入社し、1958年当時は研修を終えて間もない新人技術者であった。しかし、元々写真愛好趣味が昂じてプロのカメラ技術者となった身でカメラのメカニズムには精通しており、また実家は資産家で、自身のプライベートではライカを愛用していたのである。彼の見識が、ユニークな小型カメラの開発に生かされることになった。
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ペンと米谷美久
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最初の「ペン」が世に出た経緯は、後年、オリンパスの取締役まで務めた技術者の米谷美久が、上司から「6000円で売れるカメラの開発」という課題を与えられたことに始まる。1958年7月1日から設計に着手した。 価格6000円は、当時の日本製カメラとしては相当な低価格設定であり、通常であれば大衆向け製品と割り切ってグレードの低いレンズに簡素なメカニズムの組み合わせとし、性能面ではそれなりに低い水準で妥協しなければならないところであった。だが米谷は、大衆向けカメラであっても安易な妥協設計を採るべきでないと考え、「ライカのサブカメラとして使える小型カメラ」という野心的コンセプトを打ち出した。 ドイツのエルンスト・ライツ社(現ライカ)は第二次世界大戦前から高性能な35mm版カメラの「ライカ」を製造販売し、世界的に35mm版カメラのベンチマークとしての地位を得ていたが、1954年には設計を一新した戦後型の革新作「ライカM3」を発売し、レンジファインダー型カメラの一つの完成形を示して、市場に衝撃を与えた。1950年代後期、各国のカメラメーカーは高級機・大衆機の別なく程度の差はあれどM3のメカニズムを研究、そのシステムを取り入れようとしていた。 米谷は1956年にオリンパスに入社し、1958年当時は研修を終えて間もない新人技術者であった。しかし元々が玄人はだしの写真愛好趣味が昂じてカメラ技術者となった身であり、カメラのメカニズムには精通していた。また実家は資産家で、以前からプライベートではライカを愛用していたのである。その事による見識が画期的な小型カメラの開発に生かされることになった。
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