ペンのペンシルヴェニア植民地
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ペンのペンシルヴェニア植民地」の解説
「ペンシルベニア植民地」も参照 クエーカー(フレンド派)は、既存の教会や聖職者の権威を認めなかったところからイギリス本国で非国教徒として厳しい弾圧を受けた。また、その教義のうちに平信徒が「内なる光」を通じて神と交信して神の導きを受けるという教理を含んでいたため、清教徒(カルヴァン派)の厳格な教義とは相いれず、マサチューセッツでもニューアムステルダム(現在のニューヨーク)でも迫害を受けた。クエーカーのウィリアム・ペンは1681年に領主植民地であるペンシルヴェニア植民地を建設し、その憲章(ペンシルヴェニア憲章)では信教の自由が保障された。さらに、陪審員制の裁判や代議制政府の設立、本国イギリス並の市民的諸権利の保障などを約束した。 非国教徒であるペンが国王チャールズ2世からペンシルヴェニア領主になることを認められたのには、いささか特殊な事情が絡んでいた。チャールズ2世がイングランド海軍の提督であったペンの父(ウィリアム)に多額の借金をしていたうえ、彼はチャールズ2世に忠実で王政復古に際しても大きな功績があったためである。ペン自身も国王とは個人的に親しく、ペンシルヴェニアの地も王弟ヨーク公ジェームズ(のちのジェームズ2世)より下賜された地であった(ヨーク公を領主とする植民地はニューヨーク植民地となった)。 ウィリアム・ペンは、この植民地をクウェーカー派に限定せず、宗教的迫害に苦しむ人々を教派に関係なく受け入れる姿勢を示した。また、イギリス、オランダ、ラインラントの各地を訪れて植民者を募集したので、ペンシルヴェニアにはデラウェア川流域にいたオランダ人、スウェーデン人、フィンランド人が移住し、ヨーロッパからもイングランド、ウェールズ、アイルランドからのクエーカーに加えてドイツの敬虔派やフランスのユグノー、スイスの再洗礼派など、さまざまな信仰をもった多様な人々が集まり、ペンの掲げた宗教的寛容は事実として根付いた。先住民に対しても配慮し、植民者たちは先住民の土地所有権を尊重することが義務づけられており、彼らから土地を購入することなしには誰も定住できなかった。また、兵役を拒否するペンの勧めで、メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナなどの地域からタスカローラ族(英語版)、ショーニー族、マイアミ族などネイティブ・アメリカンも移住した。 植民地議会はやがて次第に自律的な力をもつようになり、総督や領主の権威を脅かした末にペン家のペンシルヴェニアにおける影響力を排除するに至ったが、「神の前の平等」の理念と共和主義は多くの人々を引きつけて商工業の発展をもたらし、その中心都市フィラデルフィアは独立前の13植民地における政治・経済の一大中心地として栄えた。
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