ライカを愛用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 15:50 UTC 版)
日本光学工業(現ニコン)は「1971年度(原文ママ)のピューリッツァー賞も、ニコンによる作品に授与された。ベトナム戦線において取材にあたったUPI通信社の沢田カメラマンの『安全への逃避』という力作である」と主張していたが、実際には日本製カメラをどんなに勧められても「日本のカメラは写りが悪い」「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」といって日本製のカメラを使いたがらなかったという。妻のサタは、沢田本人が書いた『安全への逃避』の写真データとして「ライカM3、135ミリレンズ、トライX、1/250秒、F11」としている。 沢田がニコンを1台提げている写真が残っているが、ジャングルで取材中に故障し写真が撮れなかったことがあった。この際彼はニコンを地面に叩きつけながら「こいつのおかげで、今のショットを撮り逃がしたんだ!」と憤慨し、以来ライカ信奉は確たるものになったという。1967年にはライカだけでボディ6台(M3を3台、M2を2台、M4を1台)所有、レンズはスーパーアンギュロン21mmF3.4、エルマリート28mmF2.8・135mmF2.8、ズミルックス35mmF1.4、ズミクロン35mmF2・50mmF2・90mmF2、エルマー50mmF2.8などを揃え、これを黒塗りにした50×30cmほどのゼロハリバートンのアタッシェケースに収めて運んでいた。沢田は受賞した表彰式で取材陣から「どんなカメラを使っているのか」という質問に対し常に「ライカ」と答えていたため有名になり、エルンスト・ライツ社(現ライカ)からプロトタイプの実写テストを頼まれるまでになっていた。 ハーグ世界報道写真展で1位を取って以後はニコンFを使用することもあったが、105mmや200mmといった望遠レンズのみであり、主力は引き続きライカを使用した。
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