ライカの販売とカメラマンの育成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 08:02 UTC 版)
「シュミット商会」の記事における「ライカの販売とカメラマンの育成」の解説
2代目社長の井上によれば、最初にライカを輸入したのは1925年夏で、エルマックス50mmF3.5付きライカI(A)型(シリアルナンバー377)であったという。同年後半にシリアルナンバー889と891の2台が入荷し、1926年には50台を輸入した。しかし当時カメラは初めて取り扱う商品で色々苦労があり、近隣にあったカメラ店金城商会の三木紀三や35mmフィルムを使用する松竹蒲田撮影所の増谷麟などの指導を仰いだという。 シュミットのライカへの情熱を受け継いだ井上は、ライバルブランドであるコンタックスの愛好者がライカ愛好者とどちらが優れたカメラであるかを論争した「ライカ・コンタックス論争」に対して、就任早々有名なパンフレット『降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ』を刊行して対抗した。このパンフレットは相手側を批判するのでなく、ライカの優秀性を滔滔と書き上げた格調の高い文書として評されている。その後写真部長として明石正巳が就任して井上を助け、木村伊兵衛等多くの名カメラマンを育てた。
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