プライエイラの反乱とラ・プラタ戦争
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「ブラジル帝国の歴史」の記事における「プライエイラの反乱とラ・プラタ戦争」の解説
詳細は「プライエイラの反乱」および「ラ・プラタ戦争」を参照 秩序党と違い、自由党の派閥は交替で政権をとることができなかった。最も急進的な派閥はペルナンブーコ州の「砂浜党」(Partido da Praia)であり、反乱を起こして武力で権力奪取することを準備した。名目的には自由党だったが、実際には宮廷派と関連を持っており、コウチーニョを全国における指導者としていた。そのため、プライエイラの反乱は1847年以降消滅していた宮廷派の再起をかけた反乱とみることもできる。しかし、「プライエイロス」(praieiros)と呼ばれた砂浜党の党員には大衆の支持がなく、世論も彼らに反対していた。おまけに、反乱を正当化できる理由すらもっていなかった。1848年11月7日に始まった反乱は大きな支持を得ることもなく、1849年2月2日にペルナンブーコ州の首府レシフェで大敗して鎮圧された。プライエイラの反乱の後、自由党は世論に反対されほぼ完全に消滅した。また、ブラジル人が立憲君主制支持で固めるようになり、その後の10年間で保守党が政治を主導する結果になった。 もう1つの問題は1826年のイギリスとの条約で禁止された、奴隷の違法輸入だった。奴隷の違法輸入は条約締結以降も止まず、イギリスは1845年にアバディーン法(英語版)を制定して、イギリス軍艦にブラジル船に乗船して捜査することと、奴隷貿易に関与した者の逮捕を許可した。ブラジルでも1850年9月4日にブラジル政府に違法奴隷貿易に対処する権力を与える法案が発布された。これにより、ブラジルは奴隷輸入を排除することができ、イギリスは奴隷貿易が止められたことを認めた。 ブラジルの内部問題が対処され、イギリスからの脅迫もなくなったことで、保守党内閣はもう1つの外敵に対処することができた。その外敵とはアルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスであり、彼はブラジルのリオグランデ・ド・スル州、パラグアイ、ウルグアイ、ボリビアの併合をもくろんだ。それは元リオ・デ・ラ・プラタ副王領の再建を意味した。ブラジルの内閣はロサスの野心に脅かされている諸国との同盟を決定、ルイス・アルヴェス・デ・リマ・エ・シルヴァ(後のカシアス公爵)率いる軍勢をウルグアイに派遣した。この軍勢は1851年9月4日に国境を越えた。ブラジル軍は二手に分け、うち半分はウルグアイ軍とアルゼンチン反乱軍で構成され、アルゼンチンに進軍した。1852年2月3日、同盟軍はロサス率いる軍勢を撃破、ロサスはイギリスに逃亡した。ロサスに勝利したことで、1850年代のブラジルは安定と繁栄の時期になった。この時期のラテンアメリカで経済力と政治の結束がブラジルと比肩できる国はチリだけだった。
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