ピーター・サイツの仲裁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:10 UTC 版)
「1975年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ピーター・サイツの仲裁」の解説
この年俸調停制度は3年前に選手側の敗訴に終わったカート・フラッド訴訟から、連盟側からの提案で設置されたもので球団側と選手側の双方の意見を聞いて仲裁人が裁定を下すものであり、その裁定はオーナーも選手も拘束されるものであった。またこの仲裁に当たってドジャースのアンディ・メッサースミスとエクスポズのデーブ・マクナリーの2人の契約更改をめぐる争いについて結論を出すものであった。マクナリーもこの年に無契約でプレーしてそしてシーズン途中に引退していた。ただ引退しても保留制度に拘束されることに対して、この裁定に持ち込んだ。 仲裁人のピーター・サイツは、事前にメジャーリーグ規則、前年1973年に選手会側とオーナー側とで結ばれた団体労働協約、統一選手契約書の条項の検討から始め、前年結ばれた労働協約に「協約の条項」に関する紛争についての仲裁条項が盛り込まれていることを確認した。これで仲裁人の裁定が絶対のものであることを確認した。そして奇妙なことに労働協約第15条に「本契約は保留制度を扱わない」という文言があり、オーナーたちはこの文言を読んで既に仲裁人が行う「裁定」にはこの紛争は入らないと考えていた。しかしサイツは別に保留制度を扱う条項が協約の中のあちこちにあることも確認した。そして統一選手契約書に記載されている第10条A項のいわゆるオプション条項と呼ばれる「1年間」という表現であった。1年間とはその1年限り有効なものなのか、それとも1年ずつ次の年も更新(ここでは自動更新のこと)できるのか、であった。また契約が切れた選手の取り扱いについて、リーグ規則4ーA・aで球団の保留リストに名前を記載される選手は契約中の場合のみであること、リーグ規則3-gで買収を禁じて契約中でなくとも保留された選手のプロテクト権を球団に与えていることも分かった。そして過去に遡って1903年1月10日に新興のアメリカンリーグと老舗のナショナルリーグが初めて結んだ協定で、各球団は契約を結んだ選手を保留することが出来て統一契約書が適用されるものとする文言を見つけた。当然ながら球団は契約が更新できたから保留の裏付けになる契約が何時でもあることになる。しかしもし裏付けとなる契約がなければ球団は選手を保留していないことになる、とサイツは考えた。 1975年11月21日と25日、12月1日の審問を経て12月23日に、仲裁人のピーター・サイツが出した裁定は、慎重に保留条項に関わる部分は判断をせず、あくまで契約に関わる部分だけを述べて、球団は統一契約書に基づいてその選手を保留する権利を有する、保有権を有している間に次のシーズンの契約を結ぶことで成り立っている。ただし特例として保有権を有する期間に契約更改ができなかった場合は拘束できず、その選手は自由契約になるというものであった。シーズン終了後の契約更改が出来なかった場合は次のシーズンはオプション条項によって球団はまだ保有権を有しているので、無契約でのプレーをして(年俸は80%が保証される)いる間に契約更改しなければ拘束するものではなくなる、という結論であった。ドジャースは抗議しボウイ・キューンコミッショナーはこの裁定を「選手、球団、ファンに破滅をもたらす」と批判したが、そもそもこの年俸調停制度は、連盟側からの提案で設置された第三者機関であり、その裁定はオーナーも選手も拘束されるとして確認されていたもので、コミッショナーといえども覆せるものではなかった。結局メッサースミスの調停持ち込みは、誰も気が付かなかったオーナー側の盲点をついたものになり、メジャーリーグの歴史を変えるものとなった。 メッサースミスはフリーとなって各球団の争奪戦となり、ブレーブスが3年で100万ドルを提示して彼はブレーブス入りした。しかし皮肉なことにブレーブスでは故障もあって期待されたほどには活躍できず、2年後にはヤンキースにわずか10万ドルのトレードマネーで放出され、1979年に古巣のドジャースに戻ってきてこの年限りで引退した。1975年までで112勝したメッサースミスは、その後4年間でわずか18勝しか実績を残せなかった。 しかしメッサースミスの特例を参考にして契約更改をせずオプションで無契約で1年間プレーしてそしてフリーになる選手が続出したため、メジャーリーグは新たな対策の検討を始めざるを得なくなった。
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