ヒスパー氷河とシアチェン氷河
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 06:10 UTC 版)
「ファニー・ブロック・ワークマン」の記事における「ヒスパー氷河とシアチェン氷河」の解説
1908年、ワークマン夫妻はカラコルムに戻って来て、フンザ・ナガー地域の全長38マイル (61 km) のヒスパー氷河を探検した。標高17,500フィート (1,500 m) のヒスパー峠をギルギットからナジールに抜け、全長37マイル (60 km) のビアフォ氷河をアスコルまで進んだ。これら氷河を全踏破したのも新たな記録であり、ヒマラヤ山脈のこの大きさの氷河を渡ったことでは最初の女性となった。多くの面にある氷河を探検した初めての機会であり、イタリア人ポーターが作成した地図はこの地域で初の地図となった。彼らは高度が心理に与える効果を記録し、氷河と氷の頂上を研究し、気象観測を行った。その中にはアネロイド気圧計と沸点温度計の両方で記録した高度データが含まれていた。 1911年と1912年、ワークマン夫妻はローズ氷河とマッシャーブルム山周りのバルティスターンにある全長45マイル (72 km) のシアチェン氷河を探検した。これは当時の世界で最も広く長い亜寒帯氷河であり、ほとんど探検されておらず、近づきがたい所だったので、夫妻の経歴の中でも最も重要な成果となった。夫妻は2か月間で45マイル (72 km) の氷河を歩き、幾つかの山に登り、地域の地図を作った。この期間全て標高15,000フィート (4,600 m) 以上で過ごし、頂上を極めたインディラ・コル(標高18,911フィート、5,764 m)にその名前をつけた。この遠征中に、イタリア人ガイドの1人がクレバスに落ちて死んだ。ファニーは落下を免れることができた。他の者達も酷く動揺したが、その行程を続けた。シアチェン氷河の頂点に近いシア・ラ峠(標高18,700フィート、5,700 m)を越え、カベリ氷河のまだ探検されていなかった地域を進んだ。この探検とその結果書かれた本はファニーの業績の中でも最大級のものである。この旅についてその著作『氷の中の2つの夏、東カラコルムの荒野』の中で書いているように、彼女がこの遠征隊を組織し率いた。「このとき、ハンター・ワークマン博士は私に同道したが、私が食料係、写真係、氷河学者であり、私がこの遠征隊の責任ある指導者であり、私の努力が大部分その成功にも失敗にも掛かっていた」としていた。標高21,000フィート (6,400 m) の高原の上で、ファニーが題字に「女性に選挙権を」と書かれた新聞を広げ、それを夫が象徴的な写真として撮影した。夫妻はグラント・ピーターキンやサージャン・シングなど訓練された高山のガイドや測量士を連れてきており、そのシアチェン氷河について作成した地図は、それまでワークマン夫妻が作成に貢献した多くの地図とは異なり、その後も長く使われ続けた。
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