パルデン・トンドゥプ治世期の活動
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「シッキム国民党」の記事における「パルデン・トンドゥプ治世期の活動」の解説
1963年にタシ・ナムゲルが崩御し、その子のパルデン・トンドゥプ・ナムゲルが即位すると、パルデン・トンドゥプは父王の親インド路線を転換してシッキム独立や反インドの姿勢を明確にした。これに伴いSNPも結党当初の姿勢へと回帰することになる。1967年の第3回参事院選挙(選挙議席18)では、ネパール系の新党シッキム国民会議派(SNC)が8議席となり、SNPは5議席で第2党となった。1970年の第4回参事院選挙(選挙議席18)では、反印運動の盛り上がりや他党の足並みの乱れもあって、SNPが7議席で第1党となった。 ただし第4回参事院選挙の前後には、SNP内でもネトック・ツェリン・ブティアなど一部指導者が民主主義制度導入の必要性を唱えるようになり、パルデン・トンドゥプを狼狽させている。同選挙を勝ち抜いて地位を向上させたネトックは、SNCのカジ・レンドゥプ・ドルジに「民主連合構想」を提案、連立を持ちかけた。ところがこの時のドルジは、行政参事会委員に就任しようとしていたために王室の敵意を恐れ、この提案を拒絶している。以後、SNPでは王制擁護の方向性がますます強まった。 1973年の第5回参事院選挙(選挙議席18)でもコミュナル選挙制度の恩恵に加え、SNCとSSC系の新党シッキム人民会議派(SJC)との相討ち状況もあり、SNPは11議席を獲得して勝利した。しかしSNCやSJCなどネパール系政党は「不正選挙」と反発し、ついにシッキムの王室や政府では収拾できないほどのデモや武装蜂起が全国で発生した。この結果インドが介入して混乱を収拾し、インド、王室、SNCなど政党との三者による新たな協定が結ばれ、シッキムのインド属国化が強化された。 この協定に基づき、参事院に代わってシッキム立法議会(英語版)(選挙議席30)が創設され、1974年に選挙が実施されることになった。しかし投票開始前から決着は付いていた。新たに採用されたインド型の単純小選挙区制にも対応できず、SNPの立候補者は6人にとどまっていたのである。選挙戦でも、SNPは引き続きインド・シッキム条約改正によるシッキム独立を掲げたが、有権者の関心は国内問題に向いており重大な争点にはならなかった。しかもSNPは旧支配層の利益を代表していたために内政改革や民主的制度導入の主張も唱えようがなかった。SNPは僅か1議席の獲得に終わり、SNCとSJCが合併して成立したシッキム会議派(SC)は29議席を獲得する圧勝であった。翌1975年には、SCとインドは民意を背景に王制を廃止し、シッキムをインドの一州に編入してしまうことになる。 シッキムのインド編入後初となる1979年州議会選挙にSNPは参戦しておらず、その後も活動の情報は見当たらない。1975年から程なくしてSNPは自然消滅した可能性が高い。
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