パルデントンドゥプ治世期の活動とは? わかりやすく解説

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パルデン・トンドゥプ治世期の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/24 15:34 UTC 版)

シッキム国民党」の記事における「パルデン・トンドゥプ治世期の活動」の解説

1963年タシ・ナムゲル崩御しその子パルデン・トンドゥプ・ナムゲル即位すると、パルデン・トンドゥプは父王の親インド路線転換してシッキム独立反インドの姿勢明確にした。これに伴いSNPも結党当初姿勢へと回帰することになる。1967年第3回参事院選挙選挙議席18)では、ネパール系の新党シッキム国民会議派SNC)が8議席となり、SNPは5議席第2党となった1970年第4回参事院選挙選挙議席18)では、反印運動の盛り上がり他党足並み乱れもあって、SNPが7議席第1党となった。 ただし第4回参事院選挙前後には、SNP内でもネトック・ツェリン・ブティアなど一部指導者民主主義制度導入必要性唱えるようになり、パルデン・トンドゥプを狼狽させている。同選挙勝ち抜いて地位を向上させたネトックは、SNCカジ・レンドゥプ・ドルジに「民主連合構想」を提案連立持ちかけた。ところがこの時のドルジは、行政参事会委員就任しようとしていたために王室敵意恐れ、この提案拒絶している。以後、SNPでは王制擁護方向性がますます強まった1973年第5回参事院選挙選挙議席18)でもコミュナル選挙制度恩恵加えSNCSSC系の新党シッキム人民会議派SJC)との相討ち状況もあり、SNPは11議席獲得して勝利した。しかしSNCSJCなどネパール政党は「不正選挙」と反発し、ついにシッキム王室政府では収拾できないほどのデモ武装蜂起全国発生した。この結果インド介入して混乱収拾し、インド王室SNCなど政党との三者による新たな協定結ばれシッキムインド属国化が強化された。 この協定に基づき参事院に代わってシッキム立法議会英語版)(選挙議席30)が創設され1974年選挙実施されることになった。しかし投票開始前から決着付いていた。新たに採用されインド型の単純小選挙区制にも対応できず、SNPの立候補者は6人にとどまっていたのである選挙戦でも、SNPは引き続きインド・シッキム条約改正によるシッキム独立掲げたが、有権者関心国内問題向いており重大な争点にはならなかった。しかもSNPは旧支配層利益代表していたために内政改革民主的制度導入主張唱えようがなかった。SNPは僅か1議席獲得終わりSNCSJC合併して成立したシッキム会議派SC)は29議席獲得する圧勝であった。翌1975年には、SCインド民意背景王制廃止しシッキムインド一州編入してしまうことになる。 シッキムインド編入後初となる1979年州議会選挙にSNPは参戦しておらず、その後活動情報見当たらない1975年から程なくしてSNPは自然消滅した可能性が高い。

※この「パルデン・トンドゥプ治世期の活動」の解説は、「シッキム国民党」の解説の一部です。
「パルデン・トンドゥプ治世期の活動」を含む「シッキム国民党」の記事については、「シッキム国民党」の概要を参照ください。

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