パスポートの取り消し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 23:47 UTC 版)
「ポール・ロブスン」の記事における「パスポートの取り消し」の解説
1950年、国務省はロブスンのパスポートを否認し、すべての港での「停止通知」を発行し、事実上彼をアメリカ合衆国内に制限した。1950年8月23日にロブスンと彼の弁護士が国務省の職員に会って、彼が外国を旅行することがなぜ「合衆国政府の利益に有害である」のか尋ねたとき、彼らは「アメリカ合衆国の黒人の扱いについての彼の頻繁な批評はあまり外国に広めるべきではない」、それは「内輪の問題である」と答えた。ロブスンがパスポートの再発行について尋ねたところ、アメリカ合衆国外でひとつのスピーチもしないと保証する声明に署名することをロブソンが拒否したことを引用して国務省は拒絶した。ロブスンのパスポートの取り消しは、国務省が親ソビエトであると考えた他の個人と同様であった。その中には作家のハワード・ファスト、アルバート・E・カーン(英語版)、W・E・B・デュボイスや、米ソ友好全国委員会の委員長であったリチャード・モーフォードがいた。 渡航禁止令に対する挑戦の象徴的な行為としては、米国とカナダの労働組合が1952年5月18日に企画した音楽会、『国際ピース・アーチ(英語版)』がワシントン州とカナダのブリティッシュコロンビア州の間の国境で開催された。ポール・ロブスンがアメリカ合衆国=カナダ国境の米国側の平らなトラックの荷台の後ろに立って、2万人とも4万人とも言われるカナダ側の群衆に向けてコンサートを行った。1953年、ロブスンは再びピースアーチでの2回目の公演のために戻って来て、さらに翌2年にわたる2回のコンサートが予定された(公式には、渡航禁止令はロブスンのカナダ入国を禁止しておらず、カナダ=合衆国の国境間の旅行にパスポートは必要なかったが、国務省はロブスンがカナダを旅行することを防ぐために直接介入した)。 1956年、渡航禁止令が課されて以来初めて、ロブスンは合衆国を離れ、その年の3月にカナダの二つの都市、サドバリーとトロントでコンサートを行った。渡航禁止令は1958年に終了し、同年ロブスンのパスポートは返還された。
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