バレー方面作戦、第一次ウィンチェスターの戦い
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「ジョージ・ヒューム・ステュアート」の記事における「バレー方面作戦、第一次ウィンチェスターの戦い」の解説
1862年3月6日、ステュアートは准将に昇進し、ストーンウォール・ジャクソンによるバレー方面作戦のときは、リチャード・イーウェル少将師団で1個旅団を指揮した。5月24日、ジャクソンがステュアートにバージニア第2騎兵連隊と同第6騎兵連隊の指揮を任せた。1862年5月25日に起きた第一次ウィンチェスターの戦いのとき、ジャクソンの軍隊が勝利して、北軍の歩兵部隊を混乱の中、撤退させた。その状況は、騎兵隊が勝利を決定づければ完全なものだったが、どの騎兵隊もその利点を生かすことができなかった。ジャクソンは、「騎兵隊にとってこれほどのチャンスが来ることはなかった! あー私の騎兵隊がそこにいたのだ!」と文句を言った。疲弊していた歩兵部隊が再度前に出され、その間にジャクソンの参謀であるサンディ・ペンドルトン中尉が、ステュアートを見つけるために派遣された。 ペンドルトンはやっとステュアートを見つけて、北軍ナサニエル・バンクスの退却している部隊を追撃する命令を伝えたが、ステュアートは軍隊のエチケットに関して貴重な時間を費やして遅れた。ステュアートは直接の上官であるイーウェル将軍から命令が出されて初めて従うとした。ペンドルトンは馬で2マイル (3.2 km) も移動してイーウェルを見つけ、イーウェルが直ぐに命令を出したが、「ステュアート将軍が即座に行動しなかったことに驚いている様子だった」と言っていた。 最終的にステュアートが追撃を行い、南軍歩兵部隊が築いた利点を引き継ぎ、多くの北軍兵を捕虜にしたが、遅延の結果として、ジャクソンの報告に拠れば、「成功した追撃には程遠い」ところまでしか南軍騎兵隊は北軍を追い詰められなかった。ジャクソンは、「騎兵隊にこの追撃に関わらせたと考えるだけの理由があるが、バンクス軍の小部分はポトマック川まで逃亡できることになった」と付け加えていた。 ステュアートがバンクスの敗北した軍隊をより活発に追撃することを何故躊躇ったのか明らかでないままになっており、当時の記録ではこの問題をほとんど追及していない。ステュアートが13年間騎兵隊士官として訓練を積んでいたために、文書に拠る命令に従うようにさせていた可能性があり、個人的な独創性や厳密に命令に従うことから逸脱するにはほとんどあるいは全く余地が無かったのかもしれない。しかし、ジャクソンの厳格な規律主義という評判にも拘わらず、ステュアートに対して何の告発も行われなかった。ジャクソンの寛大さは、メリーランド住民を南部の側に付けるという南軍の強い願望に対応せねばならず、リーの軍隊に加わろうというメリーランド住民に対する攻撃を避ける必要があったのかもしれない。 ウィンチェスターの戦いが終わってから間もない6月2日、ステュアートは不幸な事件に巻き込まれた。バージニア第2騎兵隊が、友軍のバージニア第27歩兵連隊から誤って銃撃された。トマス・フラーノイ大佐とトマス・T・マンフォード大佐がイーウェル将軍の所に行き、その指揮する連隊であるバージニア第6および第2騎兵隊を、准将に昇格したばかりだったターナー・アシュビーの指揮下に付けるよう要求した。これにイーウェルが同意し、ジャクソンの所に行って最終的承認を求めた。ジャクソンもその案に同意したので、スチュワートはこの戦争の残り期間、歩兵部隊の指揮官ということになった。
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