バレー方面作戦と戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/23 05:00 UTC 版)
「ターナー・アシュビー」の記事における「バレー方面作戦と戦死」の解説
アシュビーの活発な偵察と遮蔽操作はジャクソンの1862年シェナンドー渓谷における伝説的バレー方面作戦の成功に強い要因となった。しかし、アシュビーがジャクソンを困らせた例もあった。第一次カーンズタウンの戦いの時に、アシュビーが北軍は4個歩兵連隊と報告し、それがジャクソン軍と同じくらいの勢力だったので、後退中の北軍部隊を攻撃した。その部隊が9,000名の全師団であることがわかり、ジャクソンは撤退を強いられた。第一次ウィンチェスターの戦いでは、ナサニエル・バンクス少将の北軍が撤退しているときに、アシュビーの部隊は捕獲した荷車からの略奪に囚われたために北軍の撤退を遮断できなかった。もしその見過ごしと規律の欠如が無ければ、北軍は徹底的に破壊された可能性があった。 ジャクソン軍が北軍ジョン・C・フレモント少将の優勢な軍隊のためにハリソンバーグからポートレパブリックに向けて撤退しているときに、アシュビーは後衛を務めた。1862年6月6日、ハリソンバーグの近くで、グッド農園のアシュビー陣地を第1ニュージャージー騎兵隊が攻撃した。アシュビーはこの騎兵攻撃を撃退したが、その後の歩兵戦で乗っていた馬が撃たれ、アシュビーは徒立ちで突撃を掛けた。数歩も行かないうちに、アシュビーは心臓を射抜かれて即死した(致命傷となった銃弾の発射元は歴史の中に埋もれた。第13ペンシルベニア予備歩兵連隊「バックテイルズ」の兵士が発射元だと主張したが、ある史料では友軍の銃撃のせいにしている)。最後の言葉は「進め勇敢なる兵士よ!」だった。その死の丁度10日前に准将に昇進したばかりだった。
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