バラク (チャガタイ家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/15 20:51 UTC 版)
バラク | |
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チャガタイ・ウルスの第9代当主 第5代カン |
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在位 | 1266年 - 1271年 |
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死去 | 1271年 |
家名 | チャガタイ家 |
父親 | イェスン・トア |
宗教 | イスラム教 |
バラク(Barāq、? - 1270年[1]もしくは1271年[2])は、モンゴル帝国のチャガタイ・ウルスの第9代当主で第5代カン(1266年 - 1271年)。漢語表記は八剌。ペルシア語資料では براق (Barāq)。チンギス・カンの次男チャガタイの長男であったモエトゥケンの三男イェスン・トアの次男である。チャガタイの曾孫にあたり、伯父にブリ、叔父に第2代君主カラ・フレグ、従兄弟に第8代君主ムバーラク・シャーがいる。
生涯
即位以前
若年期の動向については不詳であるが、1266年に第7代当主アルグが死去したとき、中央アジアのイリ川渓谷にあるチャガタイ家のウルスではなくモンゴル高原・中国におり、モンゴル帝国の中央政権である大元ウルスのカアン、クビライに近侍していた[3]。
アルグが死去すると、チャガタイ家の正嫡であるムバーラク・シャーが第8代当主に即位したが、クビライはチャガタイ家の当主に自身の側近を据えることで中央アジアの統制を強化することを狙って、バラクをアルグの後継者に指名して中央アジアに送り出した[4]。
中央アジア進出
バラクはイリ渓谷に入るとムバーラク・シャーからチャガタイ家当主の座を奪ったが、自らチャガタイ・ウルスの支配を確立すると、クビライの傀儡となることを嫌ってカアンに反抗した。バラクは本来カアンの所領であるがクビライ即位前後の混乱によって帰属が曖昧になっていた中央アジアのオアシス地帯を支配下に置くため、マー・ワラー・アンナフルに兵を送ったが、その支配権を巡って同じくクビライに反旗を翻していたオゴデイ家のカイドゥと対立した[5]。
結局1269年の春になってバラクとカイドゥは和議を結び、ジョチ家の代表ベルケチェルを交えて三者でタラス川の河畔で会盟を行い、チャガタイ家がマー・ワラー・アンナフルの3分の2を領有し、残りをオゴデイ家とジョチ家が分割することを約した(タラス会盟)[6]。[注釈 1]
遠征
バラクは、タラス会盟でなおも所領を欲したため、三者はホラーサーン方面へ遠征してその不足分を補う事を約した。これによりオゴデイ・ジョチ両家との同盟を後ろ盾とし、1270年クビライの甥で同盟者のアバカを当主とするイルハン朝(フレグ家)の支配地域であるホラーサーン地方を奪取するためにアム川を渡った[10]。この遠征軍に参加したチャガタイ、オゴデイ家の王族たちは、前チャガタイ家当主ムバーラク・シャーや、バラクの後に当主となるニクベイ、オゴデイ家からはグユクの孫のチャバトや甥のキプチャクなどがいた。しかし、アム川を渡った前後に、遠征に参加していたオゴデイ家の王族キプチャクとチャバトが、軍中でバラクの家臣と口論のすえ離反し、カイドゥのもとへ帰還してしまう事件が起きた。バラクの遠征軍はなおも進撃してニーシャープールを劫略するなどホラーサーン東部を略奪したが、ヘラート近郊のカラ・スゥ平原の戦いで、アゼルバイジャンから急派してイラン各地の諸軍を率いたアバカの迎撃にあって大敗した。
この敗北によって、ジョチ・ウルスのモンケ・テムルはアバカの勝利を祝して多数の贈答品を送り、イルハン朝との友好関係の修復を図っており、一方でバラクの支配下の諸部族、王族たちがバラクから離反したうえ、カイドゥとの対立が再燃した。バラクの即位と圧政を不服とする王族たちはカイドゥのもとに投降し、カイドゥは和解と称して大軍をもってバラクの幕営を囲んだが、バラクはカイドゥとの会談を控えた前夜に営中で急死した[11]。カイドゥによる毒殺とする見解が有力である[12]。
死後
バラクの死後、遠征軍に参加していたムバーラク・シャーがカイドゥに帰順するなど、チャガタイ家では利害を異にする王族同士の内紛が起こり、およそ三派に分裂した[13]。カイドゥ、アバカの介入によってチャタガイ家の領土が荒廃した末に[14]、結局1282年になって、カイドゥと和解したバラクの遺児のドゥアがカイドゥによって当主に任命されることになり、1301年にカイドゥが死ぬまでチャガタイ家のウルスはその支配下に置かれた。
系図
脚注
注釈
- ^ なお、旧来はこの会盟でジョチ家とチャガタイ家がオゴデイ家のカイドゥを三者共同のハーンに擁立し、クビライのカアン位を否定したとされるが、現在では疑問が呈されている[7]。特にモンケ・テムルらジョチ・ウルスの王族たちは、モンケ没後の後継者争いにはクビライ、アリクブケ両陣営に対して基本的に中立的立場をとっており、クビライに敵対的であったかは説が分かれる。また、このタラス会盟もバラクがチャガタイ家の当主位を奪ったことに警戒してマー・ワラー・アンナフルにおけるジョチ家の食邑の保持と、ウルスの東部境域の安定化を狙う意味合いが強かったものと現在では考えられている[8]。カイドゥやバラクも、それぞれ中央アジアにおけるオゴデイ家、チャガタイ家の権益の確保に腐心しているが、クビライに代わるカアンを別に擁立する意図があったかは大いに疑わしい[9]。
出典
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注)、108頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、252頁
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注)、25頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、44頁
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注)、107頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、47頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、46頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、47-48頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、52頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、54頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、60-61頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、61頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、62-64頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』、64-65頁
参考文献
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「バラク (チャガタイ家)」の例文・使い方・用例・文例
- その銀行強盗はバラクラバを着用した。
- バラクターという半導体電子素子
- 11月4日,民主党候補のバラク・オバマ氏(47)が第44代米国大統領に選ばれた。
- バラク・オバマ氏(47)が1月20日,ワシントン市にある米国連邦議会議事堂で就任の宣誓を行い,第44代米国大統領に就任した。
- 1月20日のワシントン市での就任式で,バラク・オバマ大統領は,自身が話すのを見に来た約200万人の前に立ちました。
- バラク・オバマ大統領はこの式典で演説を行った。
- バラク・オバマ米国大統領と彼の家族は先日,ホワイトハウスに新しい犬を迎えた。
- 米国のバラク・オバマ大統領が試合に参加し,始球式で投げたのだ。
- 高官はそれらをバラク・オバマ大統領に渡すと約束した。
- ノルウェー・ノーベル賞委員会は今年のノーベル平和賞がバラク・オバマ米国大統領に贈られると発表した。
- 11月13日と14日にバラク・オバマ米国大統領が,日本,シンガポール,中国,韓国への8日間の歴訪の最初に日本を訪れた。
- 討論会後の記者会見で,ボールデン長官はスペースシャトルの後継となる新しい宇宙船を開発すべきだとバラク・オバマ米国大統領を説得するつもりだと話した。
- バラク・オバマ米国大統領はノーベル平和賞のメダルとともに描かれている。
- 米国のバラク・オバマ大統領が11月14日の午後,横浜市でのアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議の後で,鎌倉の大仏を訪れた。
- エジプトのムバラク大統領が辞任
- 2月11日,エジプトのホスニ・ムバラク大統領が30年の独裁政治を経て辞任した。
- 2月10日,ムバラク大統領(82)はオマル・スレイマン副大統領に権限を移譲するが辞任はしないと話した。
- 翌日,100万人を超える人々がムバラク大統領の即時辞任を求めて全国各地でデモを行った。
- ムバラク大統領の辞任が発表された後,同国は祝賀ムードに包まれた。
- 米国のバラク・オバマ大統領は5月1日,国際テロ組織アルカイダの指導者,ウサマ・ビンラディン容疑者が米国の特殊部隊によってパキスタンで殺害されたと発表した。
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