ハーダーの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 17:06 UTC 版)
「ハーダー (SS-257)」の記事における「ハーダーの最期」の解説
単船になった二洋丸はダソル湾の奥まった部分に避退した。二洋丸の救援のために、第三南遣艦隊の命でマニラから2隻の艦艇が差し向けられた。第22号海防艦と第102号哨戒艇である。2隻は8月23日18時前にマニラを出港したが、第22号海防艦は当時修理中であった。第102号哨戒艇も当時缶管の故障に悩まされており、8月23日も応急修理を実施していた。8月24日4時53分、ヘイクは潜航を開始し、その時点ではハーダーはヘイクの南4,000メートルにいた。ヘイクは2つの探信音を探知し、その方向に潜望鏡を向け2隻の艦艇を発見した。ヘイクは最初、2隻を「軽巡洋艦と駆逐艦」と判断したが、すぐ「掃海艇と駆逐艦プラ・ルアン(タイ海軍)」と訂正した。「掃海艇」が第22号海防艦で、「プラ・ルアン」が第102号哨戒艇である。ヘイクは2隻を攻撃しようとしたが、2隻がダソル湾に入ったので、いったん攻撃をあきらめ南に進路を変えた。第22号海防艦と第102号哨戒艇はダソル湾口に到着後対潜警戒を実施していたが、夜が明けてから第102号哨戒艇が二洋丸を誘導するために湾内に入っていき、第22号海防艦は湾口において単艦で警戒を続けた。 6時47分、ヘイクは自己の潜望鏡の前方視野およそ600ヤードから700ヤードの位置にハーダーの潜望鏡を捉えた。地点は北緯15度43分 東経119度43分 / 北緯15.717度 東経119.717度 / 15.717; 119.717であった。その頃、第22号海防艦はソナーで探査中であったが、水測室から「艦橋、敵潜探知、右艦首二〇度、感度三」と報告があり、同時にその方向にハーダーの潜望鏡を発見した。ヘイクは探知されたことを察知して深深度への避退行動に移った。第22号海防艦は「戦闘爆雷戦、前進強速急ゲ」と下令しハーダーの潜望鏡に艦首を向けて速力を上げた。ハーダーは向首する第22号海防艦目がけ魚雷を3本発射。第22号海防艦は命中を覚悟したが、魚雷は右に1本、左に2本と進んできたものの、いずれも第22号海防艦をかすめ去った。第22号海防艦は7時28分ごろに潜望鏡が見えていた辺りの直上から爆雷を投射器から12個、軌条から3個投下した。やがて攻撃地点から多量の噴煙や重油、コルク片が出てきた。この時、ヘイクは4キロも西方に離れていたが、ハーダーのいるあたりで15発もの爆雷の爆発音を聴取し、一連の攻撃が終わった後、ヘイクはハーダーから何の応答も得られなかった。これが、ハーダーの最期の瞬間であった。日本側の攻撃地点は北緯15度50分 東経119度43分 / 北緯15.833度 東経119.717度 / 15.833; 119.717と記録されており、ヘイクが確認したハーダーの潜望鏡が最後に目撃された地点とほぼ同一であった。この一連の対潜戦闘の間、第102号哨戒艇は二洋丸を誘導し、ダソル湾を出てマニラに向けて航行を開始しており、やがて戦闘を終えた第22号海防艦が合流して二洋丸の右舷側に張り付き、3隻は8月24日夕方に無事マニラに帰投した。 ハーダーは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。また、ハーダーが行った6回の哨戒は全て成功と判断された。艦名は海軍の伝統に従い、第二次世界大戦後建造されたタング級潜水艦ハーダー (USS Harder, SS-568) に引き継がれた。また、殊勲の第22号海防艦と、二洋丸を誘導していた第102号哨戒艇は太平洋戦争を無事に生き残った。二洋丸はマニラに停泊中の9月21日、第38任務部隊の艦載機によるマニラ空襲で撃沈された。
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