ハンリーの建造と試験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:57 UTC 版)
「H・L・ハンリー (潜水艇)」の記事における「ハンリーの建造と試験」の解説
アメリカンダイバーが失われてから直ぐにハンリーの建造が始まった。この段階では「フィッシュボート」「フィッシュ・トーピードウ・ボート」あるいは「パーパス(ネズミイルカ)」など様々に呼ばれていた。長く続く伝説では、ハンリーは廃棄された蒸気ボイラーの胴体で造られていたことになっている。これはおそらく、実機を見たことのあるウィリアム・アレクサンダーが描いた断面図では短くずんぐりした機械を示していたからだった。実際のハンリーはその役目に合うように設計され建造されていたので、1902年にP・G・スカーレットが描いた図面に見られる流線型で現代風の艇が正確な描写になっている。ハンリーは8人の乗組員で設計された。7人が手回しクランク推進のプロペラを回し、1人が舵を握って船の針路を決めることになっていた。船の両端にはバラストタンクが備えられ、バルブを開けて水を満たしたり手動ポンプで水を排出したりできるように設計された。船殻の下にも鉄の錘をボルト止めしてバラストに使われた。潜水艦が急浮上するために浮力が必要な時は、船の中からボルトの頭を落として錘を落とすことが出来るようにした。 ハンリーには前と後の低い船橋の上にそれぞれ水密ハッチがあり、小さな舷窓と細長くて三角形の水切り板が付いていた。ハッチは14ないし15インチ (36 ないし 38 cm) と大変小さなものであり、船殻への出入りが難しかった。船殻の高さは4フィート3インチ (1.2 m) しかなかった。 ハンリーは1863年7月には公試可能になった。南軍の提督フランクリン・ブキャナンの監督下で、モービル湾で石炭用平底船を攻撃して成功させた。この公試後に鉄道でサウスカロライナ州チャールストンに運ばれ、8月12日に到着した。 南軍はハンリーがチャールストンに到着してから直ぐ、その民間人建造者かつ所有者からこの艦を押収し、アメリカ連合国陸軍に引き渡した。この時点からハンリーはアメリカ連合国陸軍の艦艇として運用されることになるが、ホレス・ハンリーとその共同事業者はこの潜水艦の試験や運航に関わり続けた。南軍の艦船としてCSSハンリーと呼ばれることがあるが、アメリカ連合国政府が公式にこの艦艇に就役命令を出したことは無かった。 アメリカ連合国海軍CSS チコーラ乗り組みの大尉ジョン・A・ペインがハンリーのスキッパー(艦長)を志願し、この潜水艦を操艦するためにチコーラとCSS パルメット・ステートから7人の志願乗組員が集められた。8月29日、ハンリーの新しい乗組員は潜水艦の操艦法を覚えるために試験潜航の準備をしていたが、乗組員が艇を漕いで走っている時にペイン大尉が誤って潜航板を制御するレバーを踏みつけてしまった。このときハッチが開いたままでハンリーが潜航し、艇の中は水に浸かった。ペインの他に2人が脱出できたが、残り5人は溺死した。 10月15日、ハンリーが仮想攻撃を行っているときに浮上に失敗し、ホレス・ハンリーと乗組員7人が死んだ。どちらの事故のときもアメリカ連合国海軍がハンリーを引き揚げ、任務に復帰させた。
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