ヌエバ・エスパーニャと中米
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:29 UTC 版)
「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「ヌエバ・エスパーニャと中米」の解説
詳細は「メキシコ第一帝政」、「メキシコ帝国独立宣言(英語版)」、および「中央アメリカ連邦共和国」を参照 コルテス・デ・カディス(英語版)によって採択されたスペイン1812年憲法は結果的にはヌエバ・エスパーニャと中米の独立の根拠になった。新政府の思惑通り、スペイン憲法と代議制政府の復活は積極的に歓迎され、選挙が行われて地方政府が成立、代議士(英語版)がコルテスに派遣された。しかし、自由派の間では新しい制度が長続きしないという憂慮があり、保守派と教会はスペインの自由主義政府が改革と反教権法の制定を推し進むことを恐れた。この不安定な雰囲気の中、両派が1820年末にアグスティン・デ・イトゥルビデ大佐を中心に同盟を結成¥した。イトゥルビデはビセンテ・ゲレロ率いるゲリラ部隊を殲滅するという任務についたスペイン国王軍の指揮官だった。 1821年1月、イトゥルビデはゲレロとの講和交渉を開始、連合してヌエバ・エスパーニャの独立国を建国することを提案した。イトゥルビデの提案はイグアラ綱領の礎になった。イグアラ綱領の骨子はヌエバ・エスパーニャの独立(後にメキシコ帝国と呼ばれるように至る)、フェルナンド7世またはボルボン家から皇帝を戴くこと、カトリック教会を国教と定めること、教会のフエロ(特権)を残すこと、そして全ヌエバ・エスパーニャ人が移民か現地住民かにかかわらず平等であることだった。2月にはもう1人のゲリラ指導者であるグアダルーペ・ビクトリアが同盟に加入、3月1日にイトゥルビデが3つの保証軍(英語版)の総指揮官になると宣言された。1821年7月1日にフアン・オドノフがスペイン新政府の代表としてベラクルスに到着したが、そのときには王党派がベラクルス、メキシコシティ、アカプルコを除いて全国を占領していた。オドノフがスペイン本国を離れた時点ではコルテスが海外植民地の自治権を大幅に拡大することを検討していたため、オドノフはイグアラ綱領に基づく条約をイトゥルビデと締結しようとした。8月24日に締結されたコルドバ条約(英語版)では1812年憲法を含むすべての法律がメキシコ新憲法の起草が終わるまで残されると定められた。オドノフはその後、10月8日に死去するまで臨時フンタに参加した。しかし、スペインのコルテスもフェルナンド7世もコルドバ条約を拒否、メキシコ議会は1822年5月19日に帝位をイトゥルビデに与えた。 中米はヌエバ・エスパーニャとともに独立した。1821年9月15日、中央アメリカ独立法(英語版)がグアテマラシティで署名され、中米(現グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ)のスペインからの独立が宣言された。中米のエリート層はイグアラ綱領を支持し、1821年に中米とメキシコ帝国を統合した。しかし、1823年にイトゥルビデが失脚すると、中米はチアパスを除いて1823年7月1日にメキシコから分離、平和裏に中央アメリカ連邦共和国を建国した。連邦は17年間存続した後、1840年に解体した。
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