ヌエバ・エスパーニャ時代(1521-1821)
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「ソカロ」の記事における「ヌエバ・エスパーニャ時代(1521-1821)」の解説
エルナン・コルテスはテノチティトランを破壊した後、町を再設計した。4つの地区の区分は温存したが、その中心部に大聖堂を建てた。その南にプラサ・マヨール(大広場)、北にプラサ・チカ(小広場)があったが、都市化が進んだ結果、後者は早い時期になくなってしまった。広場の東の元のモクテスマ2世の宮殿の跡はコルテスの宮殿になった。 広場は1629年に2メートルに達する洪水に襲われた。1692年に暴徒によって副王の宮殿が焼かれた後、広場の南西部にガレオン船貿易によってもたらされた品物を売るためのパリアンが1703年に作られた。しかし広場は仮小屋であふれ、歴史学者のフランシスコ・セダーノによると汚く見苦しい様子だった。舗装はでこぼこし、雨季には泥だらけになり、獰猛な野犬がおり、ゴミや汚物が堆積していた。 1789年12月のスペインのカルロス4世の布告によって広場が整備されたが、このときに太陽の石や女神コアトリクエの像が発見された。物売りは広場の南東に新しく建てられたメルカド・デル・ボラドール (es:Plaza del Volador) (今の最高裁判所の場所)に移された。広場の4隅に噴水が作られ、64のランプと124の石製のベンチが設置され、またマヌエル・トルサによるカルロス4世の騎馬像が広場に置かれた。メキシコ独立革命に対して1813年5月22日に副王フェリクス・カジェハらはカディス憲法とスペイン王室への忠誠を誓い、その結果、広場の名前が憲法広場に変えられた。
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