ヌエバ・エスパーニャの州
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「ラス・カリフォルニアス」の記事における「ヌエバ・エスパーニャの州」の解説
1767年、イエズス会は伝道所から追放され、フランシスコ会が取ってかわった。その移行を監督するためにガスパル・デ・ポルトラが総督に任命された。同時に、新たな監察官(visitador)のホセ・デ・ガルベスが州を組織・拡大するためにスペイン本土から派遣された。 野心的な名称である「ラス・カリフォルニアス」は、副王のデ・クロワと監察官ホセ・デ・ガルベス(英語版)の連名によるスペイン王への1768年1月28日の文書によって発足した。ガルベスはすでに植民が確立した「アンティグア」(Antigua、旧)地域と、北部の未探検の土地である「ヌエバ」(Nueva、新)地域を区別しようとした。当時、州内で探検・植民を終えている場所は、かつてイエズス会の伝道所があった場所の周辺のみであったが、北部のフロンティアの探検と植民が真剣に取りくまれるようになると、地理的な「アルタ」(Alta、上)と「バハ」(Baja、下)という名前のほうが好まれるようになっていった。 ラス・カリフォルニアス州は、1804年にアルタ・カリフォルニア州とバハ・カリフォルニア州に分割された。 1804年の分割時までに「アルタ」州は沿岸を北へ、現在のアメリカ合衆国カリフォルニア州のサンフランシスコ・ベイエリアまで含むように拡大されていた。領地拡大はガスパル・デ・ポルトラ(1769年)とその後継者であるペドロ・ファヘス(1770年)、フアン・バウティスタ・デ・アンサ、およびフランシスコ会の宣教師らによって遂行された。メキシコ独立後もこの2分割は継続されたが、州にするには人口が少なすぎるために領土(territorio)に格下げとなった。
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