ナチス機関誌加担について
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「テオドール・アドルノ」の記事における「ナチス機関誌加担について」の解説
1933年、ナチスがアメリカ黒人のジャズを禁止すると、アドルノは、ジャズは愚かであって救済すべきものはなにもなく、「ジャズの禁止によって北方人種への黒人種の音楽影響は除去されないし、文化ボルシェビズムも除去されはしない。除去されるのは、ひとかけらの悪しき芸術品である」と、当時ナチスが頻繁に使用していた「除去」「人種」「文化ボルシェビズム」といった言葉を使用して批評した。 1934年にアドルノは、ナチ全国青年指導部(Reichsleitung)の広報誌月刊ムジーク1934年6月号に論評を発表し、ヘルベルト・ミュンツェル(Herbert Müntzel)作曲のツィクルス「被迫害者の旗(Die Fahne der Verfolgten)」を誉めた。この曲はヒトラーユーゲント全国指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの詩に曲をつけたものであった。アドルノはこの曲がすばらしい根拠は、「シーラッハの詩を選ぶことで自覚的に国民社会主義的な特徴をしるしている」こと、またヨーゼフ・ゲッベルスが『ロマン主義的リアリズム』と規定した「新しいロマン主義の表象化が追求されていることにあると書いた。 1963年1月、雑誌『ディスクス』上でクラウス.Chr.シュレーダーは、アドルノは「ミニマ・モラリア」で「アウシュビッツの後ではドイツ詩はもはや書くことが不可能であると書いたが、ユダヤ人虐殺を仄めかしたシーラッハの詩を賞賛していたこととどう折り合わせるのか、また戦後アドルノはナチの共犯者を断罪してきたが自分の過去の言動については口を拭ってきたではないか」と質問した。この公開質問に対してアドルノはその論評を書いたことは「慙愧にたえない」が、理性的な読者ならあの論評は「新しい音楽」を弁護したものであり、「善意からのおもねりとして理解すべき」であると弁明した。また月刊ムジークは非政治的な雑誌であり、アドルノはその論評を書いたすぐ後の1934年夏にはナチスに自発的に協力することはやめたし、内奥の核までファシストであるハイデッガーと私を比べることはできないと弁明した。 ハンナ・アーレントはカール・ヤスパース宛書簡で、アドルノの弁明について「言いようもなくみっともない」「真に破廉恥な点は、純ユダヤ人のなかでは半ユダヤ人の彼が、あのときの一歩(ナチスの機関誌に批評を掲載したこと)を友人たちにまったく知らせずに踏み出したこと」と批判した。アーレントがアドルノに対して嫌悪感を持った理由としては、アドルノがナチスに迫害されたヴァルター・ベンヤミンを生存中に支援しなかったことや、アーレントから見るとアドルノはユダヤ人と左翼知識人に対する背信者であったことなどが挙げられている。ヤスパースもアーレント宛書簡で「なんたるぺてん。彼を読んだかぎりでは―才知に富み、計り知れぬほど多くを知り、あらゆる角度からすべてを吟味しつつ、叡智の最高の高みから書いているような著作にすら―なに一つ信用するに足るものはない」とアドルノを酷評している。 アドルノのナチス機関誌加担問題は1985年にアーレントとヤスパースの往復書簡が公刊されてから1990年代に再び持ちだされようになった。エスペン・ハンマーによれば、アドルノのナチス機関誌加担問題はハイデッガーのナチス加担問題に比すべき問題であるが、アドルノが戦後ナチスとナチスに加担した知識人について批判してきただけに、その知的誠実さを疑問視させるものであり、反調停的な倫理やラディカルな知的自律性といった戦後のアドルノの主張のすべてを疑問視することになると論じている。
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