トルコによる支配とオスマン帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 11:02 UTC 版)
「イラクの歴史」の記事における「トルコによる支配とオスマン帝国」の解説
詳細は「黒羊朝」、「白羊朝」、「サファヴィー朝」、および「オスマン帝国」を参照 トルコ系イスラム王朝の黒羊朝は、ティムールに敗れていったんは勢力を失った。しかし、1404年にティムールが没すると勢力を盛り返し、アゼルバイジャンのタブリーズを奪還し、さらにジャライル朝の残党を滅ぼしてバグダードを占領し、イラクを支配した。 1466年には、白羊朝とよばれるトルコ系イスラム王朝が黒羊朝を破り、支配権を持った。白羊朝は、東部アナトリアからイラク、アゼルバイジャン、イラン西部におよぶ帝国を築いた。 その後、イラクの大部分は、1501年にイランに起こったアゼリー人系のサファヴィー朝とよばれるイスラム王朝の支配を受けた。サファヴィー朝は、イラン・イラク地域を支配した王朝としては初めてシーア派の一派十二イマーム派を国教としたので、住民の多くがシーア派となり、多くのスンニ派のモスクは破壊された。 一方、13世紀末にアナトリア西北部で建国したトルコ系のオスマン帝国は、1453年、東ローマ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。これ以後、コンスタンティノープルはオスマン帝国の首都となり、やがてイスタンブールとよばれるようになる。オスマン帝国は、西はモロッコから東はアゼルバイジャン、イラクに至り、北はウクライナから南はイエメンに至る領域を支配した。16世紀には、オスマン帝国はサファヴィー朝を破りイラクはオスマン帝国の一部となったが、その後もこの地域を巡る両者の係争は続いた。サファヴィー朝はアッバース1世時代の1623年にはバグダードをオスマン帝国から奪取し、1638年までおよそ15年の間支配している。 このサファヴィー朝による支配の後、イラクは再びオスマン帝国の支配下に入り、その支配は第一次世界大戦まで続いた。18世紀には土着化したマムルーク出身の総督たちが州の実権を握り(イラクのマムルーク朝、イスタンブールの中央政府から半ば自立した支配を行ったが、19世紀に入ると中央集権化が図られ、タンズィマートと呼ばれる改革の結果、現在のイラクに相当する地域はモースル、バグダード、バスラの3州に再編された。またバグダード州の総督を務めたミドハト・パシャのように、州の総督も中央から官吏が派遣されるようになった。このような中央集権化の試みは都市部ではある程度成功したが、一方で地方の実力者である部族の首長などには総督の力はあまり及ばず、後にオスマン帝国の支配を離れてイギリスを頼り、クウェートの首長となるサバーハ家のような存在も残る結果となった。 18世紀以降、産業革命が急速に波及する西欧諸国に比べオスマン帝国の経済力は劣勢となっていたが、19世紀以降オスマン帝国への西欧諸国の経済的進出は激しさを増した。それはイラクにおいても例外ではなく、シャッタルアラブ川の航行権やバグダード鉄道計画など、西欧諸国への様々な利権の供与が行われた。また、フランス革命以降の民族独立の機運は、バルカン半島の諸地域だけではなくイラクやシリア地方などのアラブ地域にも、徐々にではあるが着実に波及しつつあった。 第一次世界大戦では、オスマン帝国はドイツとの同盟に基づき中央同盟国側で参戦するものの、この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされた。イギリス軍がオスマン帝国に侵攻すると、イラクも戦場となった。クート包囲戦などいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの、劣勢を覆すことができず、1917年にはバグダードが陥落し、1918年にオスマン帝国は降伏した。
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