トスカーナの後半生とは? わかりやすく解説

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トスカーナの後半生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 02:02 UTC 版)

ベノッツォ・ゴッツォリ」の記事における「トスカーナの後半生」の解説

1464年、ゴッツォリはフィレンツェを後にし、コッレジャータ・ディ・サン・ジミニャーノ教会仕事のため、トスカーナ移った。その地でゴッツォリはいくつかの大規模な作品手掛けた。まず、サンタゴスティーノ教会に『黒死病から町を守る聖セバスティアヌス』(1464年)を、同教会すべての聖歌隊席に、さまざまなアクセサリーとともに、3通り聖アウグスティヌス伝説タガステ学校入り埋葬されるまでの)の17場面を、ピエーヴェ・ディ・サン・ジミニャーノに『セバスティアヌス受難』他を、さらに、トスカーナとその近辺で、ゴッツォリはたくさんの絵を描いた。ゴッツォリの作風フィリッポ・リッピのある部分に、ゴッツォリ独自の要素混ぜたようになっていた。また、ジュスト・ダンドレアの協力受けたトスカーナには1467年まで居て1469年から、ゴッツォリはピサカンポサント仕事始めた旧約聖書から、『ワイン発明したノア』から『ソロモン王訪問するシバの女王』まで、全部24場面から成る連作大作壁画である。1年に3作、1作あたり10ダカット(中世ヨーロッパ貨幣単位で、1911年換算では当時100イタリア・リラに相当)の契約だった。しかし、この契約遵守されわけではない現実には2年間に3作のペースでしか完成しなかった。おそらく描く人物装身具膨大さで、制作の遅れを許してもらえたのだろう。 1470年1月までに、『ノアとその家族』、『ハム呪い』、『バベルの塔』(この絵の中にはコジモ・デ・メディチ若きロレンツォ・デ・メディチアンジェロ・ポリツィアーノなどの顔も見える)、『ソドム滅亡』、『アブラハム勝利』、『レネッカとラケル結婚』、『モーゼ一生』、などが完成したカンポサントの門と向かい合うアンマンナーティ礼拝堂にも、『東方三博士の礼拝』を描いた。その中にはゴッツォリの姿も描かれている。 おそらくザノービ・マッキャベリの協力もあって、ゴッツォリはこの途方もない大作仕上げることができた。結局16年かかった(なお、ピサ滞在中、ゴッツォリは他にいくつかの作品手掛けている。その中の一つ『聖トマス・アクィナス栄光』は現在ルーヴル美術館にある)。 1497年、ゴッツォリはピストイア亡くなった。おそらく死因疫病思われる。 ゴッツォリは1478年ピサ政府から、尊敬の証として、カンポサントの墓を与えられていた。ピサには自分の家持っていた。地元フィレンツェにも複数の家と土地所有していた。ゴッツォリの生涯通して真面目さは、その師フラ・アンジェリコと並ぶと言われている。

※この「トスカーナの後半生」の解説は、「ベノッツォ・ゴッツォリ」の解説の一部です。
「トスカーナの後半生」を含む「ベノッツォ・ゴッツォリ」の記事については、「ベノッツォ・ゴッツォリ」の概要を参照ください。

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