トスカーナの後半生
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「ベノッツォ・ゴッツォリ」の記事における「トスカーナの後半生」の解説
1464年、ゴッツォリはフィレンツェを後にし、コッレジャータ・ディ・サン・ジミニャーノ教会の仕事のため、トスカーナに移った。その地でゴッツォリはいくつかの大規模な作品を手掛けた。まず、サンタゴスティーノ教会に『黒死病から町を守る聖セバスティアヌス』(1464年)を、同教会のすべての聖歌隊席に、さまざまなアクセサリーとともに、3通りの聖アウグスティヌスの伝説(タガステの学校に入り、埋葬されるまでの)の17の場面を、ピエーヴェ・ディ・サン・ジミニャーノに『セバスティアヌスの受難』他を、さらに、トスカーナとその近辺で、ゴッツォリはたくさんの絵を描いた。ゴッツォリの作風はフィリッポ・リッピのある部分に、ゴッツォリ独自の要素を混ぜたようになっていた。また、ジュスト・ダンドレアの協力を受けた。 トスカーナには1467年まで居て、1469年から、ゴッツォリはピサのカンポサントで仕事を始めた。旧約聖書から、『ワインを発明したノア』から『ソロモン王を訪問するシバの女王』まで、全部で24の場面から成る連作の大作壁画である。1年に3作、1作あたり10ダカット(中世ヨーロッパの貨幣単位で、1911年の換算では当時の100イタリア・リラに相当)の契約だった。しかし、この契約は遵守されたわけではない。現実には2年間に3作のペースでしか完成しなかった。おそらく描く人物と装身具の膨大さで、制作の遅れを許してもらえたのだろう。 1470年1月までに、『ノアとその家族』、『ハムの呪い』、『バベルの塔』(この絵の中にはコジモ・デ・メディチ、若きロレンツォ・デ・メディチ、アンジェロ・ポリツィアーノなどの顔も見える)、『ソドム滅亡』、『アブラハムの勝利』、『レネッカとラケルの結婚』、『モーゼの一生』、などが完成した。カンポサントの門と向かい合うアンマンナーティ礼拝堂にも、『東方三博士の礼拝』を描いた。その中にはゴッツォリの姿も描かれている。 おそらくザノービ・マッキャベリの協力もあって、ゴッツォリはこの途方もない大作を仕上げることができた。結局16年かかった(なお、ピサ滞在中、ゴッツォリは他にいくつかの作品も手掛けている。その中の一つ『聖トマス・アクィナスの栄光』は現在ルーヴル美術館にある)。 1497年、ゴッツォリはピストイアで亡くなった。おそらく死因は疫病と思われる。 ゴッツォリは1478年、ピサ政府から、尊敬の証として、カンポサントの墓を与えられていた。ピサには自分の家も持っていた。地元フィレンツェにも複数の家と土地を所有していた。ゴッツォリの生涯を通しての真面目さは、その師フラ・アンジェリコと並ぶと言われている。
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