デヴィッド・ボウイとのベルリン時代: 1976年 - 1978年
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「イギー・ポップ」の記事における「デヴィッド・ボウイとのベルリン時代: 1976年 - 1978年」の解説
ザ・ストゥージズを解散したイギーはウィリアムソンとともにロサンゼルスに向かい、数回のギグを開催するなど音楽活動の継続を模索した。加えて薬物依存がコントロールできない自身に危機感を抱き、自ら治療施設(UCLA神経精神医学研究所(英語版))に入った。そんな中でウィリアムソンがイギーと自身の音楽キャリア継続のため、ザ・ストゥージズ末期に出来上がっていた楽曲を含む新アルバムの制作を構想し、自宅のカセットレコーダーに曲を録音し始めた。これは後にデモテープ制作に発展し、イギーも治療施設から外出許可が下りた際はレコーディングに参加した。制作されたデモテープにはどのレーベルも興味を示さず、この時点ではリリースすることができなかったが、後に『キル・シティ』と名付けられ、1977年に発売される。 この頃、しばらく疎遠になっていたイギーとボウイの親交が復活し、『ステイション・トゥ・ステイション』のレコーディング現場に顔を出すなど、改めて交流が始まった。ボウイは治療施設への訪問やコラボレーションの試行など、ロサンゼルスで散発的にイギーの面倒を見ていたが、やがて自身のツアー(アイソーラー・ツアー)にイギーを同行させることを決めた。イギーは後に、このツアーに同行することでプロフェッショナルなミュージシャンとはどのように周囲と協業していくものなのかを学んだと語っている。 1976年6月、ツアーが終了すると、イギーとボウイはフランスのポントワーズにあるエルヴィル城に滞在してボウイプロデュースの下、本格的なコラボレーションを開始する。このスタジオでのレコーディングにはドラムにミシェル・サンタンゲリ(フランス語版)、ベースに元マグマのローラン・ティボー(フランス語版)が参加しているが、ボウイが演奏したバックトラックが多く採用されている。その後、ボウイとイギーは西ベルリンに移ってマンションで共同生活を始め、薬物依存の治療を受けつつ、コラボレーションを継続した。 イギーは当時ボウイが所属していたレコード会社RCAレコードと3枚のレコードリリース契約を結び、1977年3月、コラボレーションの成果として初のソロアルバム『イディオット』をリリースした。このアルバムは商業的に成功し、その後に行なった短期間のソロツアーも成功したことでまとまった収入を得たイギーは、西ベルリンでマンションを借りて恋人のエスター・フリードマンとの同棲を開始し、ボウイとの共同生活を終了した。 1977年8月、再びボウイプロデュースの下で、『キル・シティ』にも参加していたセイルズ兄弟(トニー・セイルズ(英語版)とハント・セイルズ(英語版))をバックバンドに採用した『ラスト・フォー・ライフ』を発表する。このアルバムはイギリスでは『イディオット』を上回るチャートアクションを見せたが、アメリカでは発売のタイミングがエルヴィス・プレスリーの死去と重なっため、エルヴィスのバックカタログを大量に保有するRCAレコードはほとんどが廃盤になっていた旧譜再発に注力することになり、『ラスト・フォー・ライフ』のプロモーションには労力を割かなくなったため、商業的に失敗した。この扱いに対してRCAレコードに不信感を持ったイギーは、『ラスト・フォー・ライフ』のツアーを終えると契約を消化するためにライブアルバム『TV Eye:1977 ライヴ』を1978年4月にリリースし、そのままRCAレコードを離れ、ボウイの下からも立ち去った。
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