ディオクレティアヌスとテトラルキア体制下の迫害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「ディオクレティアヌスとテトラルキア体制下の迫害」の解説
284年、イリュリクムの貧農出身の軍人ディオクレティアヌス(在位:284年 - 305年)が東部軍によって担がれ皇帝となった。ディオクレティアヌスによって帝国は安定し、軍人皇帝位時代が終了した。ディオクレティアヌスはドミナートゥス(専制君主制)を導入して、広大すぎた帝国を効果的におさめるために286年、将軍マクシミアヌスをイタリアより西の皇帝とし、自らは東のアウグストゥス(正帝)となり、293年にはコンスタンティウス・クロルスをガリア・ブリタニア担当の副帝(カエサル)、ガレリウスをドナウ・バルカン担当の副帝に任命して、ディオクレティアヌス自らは四帝の首位とした。これがローマ帝国のテトラルキア(4帝支配)である。ディオクレティアヌスは四皇帝の一致のため、ローマの神々と皇帝をむすびつけて、ディオクレティアヌスはユピテル、マクシミアヌスをヘラクレスの代理者とし、副皇帝コンスタンティウスはソル(太陽神)、副皇帝ガレリウスはマルス(戦の神)を守護神とした。ディオクレティアヌスはローマ伝統宗教を護持し、ペルシアからの新興宗教マニ教を297年に禁止し、302年にはエジプトでの近親結婚を禁止した。 教会が分裂したり、迫害などもあったが、3世紀から4世紀にかけてキリスト教はさらに発展し、キリスト教は、ペルシア国境、ブリタニア、ライン川、ドナウ川の諸都市、アフリカまで全ローマ帝国へと広がり、教会は帝国の組織をモデルにして作り上げられていた。ディオクレティアヌスの首都ニコメディアにも教会が建設され、信徒の数は帝国全体の一割の500万から600万にまで増加していた。しかし、成長したキリスト教に対する反感も強く、303年2月には兵士が首都ニコメディアの教会を襲撃し、その後、会堂の破壊、礼拝の禁止、聖書の没収が四皇帝勅令によって全帝国で実施された。これは史上初のキリスト教に特定された迫害で、「大迫害」と呼ばれる。ニコメディアでは勅令を破った教徒が処刑され、パレスチナ、エジプトには帝国に反抗的な教徒が多く、マクシミアヌス皇帝管轄のローマではマルケリヌス司教が聖書を政府に引き渡し、司教座は空位になった。この外、カルタゴ、ヌミディア、バルカン、ドナウでも殉教がでた。しかし、副皇帝コンスタンティウス管轄のガリア・ブリタニアでは教会破壊以上の措置はとられず、殉教もなく、地域によって迫害の度合に幅があった。その後の第二勅令はディオクレティアヌスとガレリウスの管轄地域にのみを対象として、殉教も出た。さらに拘留者に祭儀を命じる第三勅令も出された。304年には全国民への祭儀が命じられるが、東方と北アフリカにおいてのみ執行された。
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