テクストの伝承と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 16:51 UTC 版)
サッポーの詩はその在世中から人気があったが、古典期のアッティカにはすでに何らかの作品集が存在していたことが知られている:358-359。ヘレニズム時代、紀元前3世紀のアレクサンドリアにおいてサッポーの作品は正典化され、ビュザンティオンのアリストパネースとその弟子のアリスタルコスの2人によってそれぞれサッポー作品集が作られた。いずれも9巻で、アリストパネースのものは題材によって分類され、アリスタルコスのものは詩形によって分類されていた:358-359:153。アレクサンドリアの詩集は少しずつ散逸したが、2-3世紀ごろにはまだ大部分が残っていたらしい:153。 古代ギリシアにおいてサッポーは十番目のムーサとまで呼ばれて評価が高かったが、その一方でメナンドロスの喜劇の題材にもされた。古代ローマ時代にもよく知られ、オウィディウスは抒情詩「愛について」の中で「いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている」(Ars Amatoria, 第28行)と述べている(オウィディウスは「サッポーからパオーンへの手紙」によって伝説のイメージを広めた人物でもあった)。カトゥルスはサッポーを崇拝し、その51番の詩 (Catullus 51) はサッポーの有名な31番の詩 (Sappho 31) の翻案と考えられている。 キリスト教が興隆すると、2世紀のタティアヌス (Tatian) によってサッポーは「淫売で色気違い」であると非難されるようになった:128,151。ローマでキリスト教が公認されると、4世紀のコンスタンティノポリス大主教グレゴリオスによって焚書され、さらに11世紀に教皇グレゴリウス7世の命令で再び焚書された:360-361:153。これによって、19世紀末にパピルスが発見されるまでの間、サッポーの詩は引用によって残るもの以外ほとんどが消滅することになったとされる。しかしながらレイノルズによると、サッポーの詩が消滅した主要な原因は焚書のような弾圧によるものではなく、古典ギリシア語のアッティカ方言が真性のギリシア語とされるとアイオリス方言で書かれたサッポー作品は尊重されなくなり、その後パピルスの時代から羊皮紙の時代に移り変わったときに、新たに写本を作る手間をかける価値がないと見なされたために筆写されずに滅んでいったのだという。 ルネサンス以後のヨーロッパではサッポーの詩そのものが知られないまま、想像力を膨らませて膨大な量のサッポーに関する伝説が生まれることになった:132-133。とくにボードレールは『悪の華』初版で削除を命じられた「レスボス」においてレスボスを同性愛にふける島として描き、レズビアニズムの代表としてのサッポーのイメージを決定的にした:133。 現代では、Sapphic(サッポー風の)は女性同性愛者を、Sapphismは女性同性愛を示すのに用いられる。また、女性同性愛者を呼ぶ一般的な呼称である「レスビアン」もサッポーがレスボス島出身であることに由来する。ちなみに、英語で「レスボス人」は"lesbian"と表記されるが、これは「レズビアン」の"lesbian"と同じつづりである。そのことから、同島の現代の一般名称はミティリーニ島の名称に好んで替えられて呼ばれている。
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