チャンピオン候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:56 UTC 版)
翌1994年、アラン・プロストと入れ替わってエース・ドライバーとなったアイルトン・セナとともにウィリアムズから継続参戦。しかし、開幕前の下馬評を覆す形でベネトンのミハエル・シューマッハが開幕3連勝し、チャンピオンシップの主導権を握った。そんな中第3戦サンマリノGPでセナが事故死し、これによりヒルは唐突にエースドライバーになった。 その後シューマッハは第4戦モナコGP、第6戦カナダGP、第7戦フランスGPで勝利するなど、シューマッハ優勢のレースが続き、前半戦終了時点でポイントはシューマッハの66点に対し、ヒルは29点と劣勢に立たされていた。しかし、ヒルが制したイギリスGPにて、シューマッハはフォーメーションラップでヒルを追い越したレギュレーション違反行為、およびその後のレース中に課せられたペナルティ指示を無視し続けたことに対し、FIAがシューマッハにイギリスGPのリザルトから除外および2戦出場停止と言う厳罰を課したことで事態は一変した。ヒルはシューマッハが出場停止となったレースをいずれも制し、更に日本GPでは雨天下で変則2ヒート制になった中で勝利を収め、最終戦直前では1点差まで追い上げた。 最終戦オーストラリアGPでは、スタートでポールシッターのマンセルがホイールスピンにより出遅れ、シューマッハがトップに立った。シューマッハは得意の先行逃げ切りを図るが、ヒルも遅れることなく追走し、先頭の2台がファステストラップを出し合いながら3位以下を引き離す展開となった。しかし、ヒルに追われて焦ったシューマッハがコースアウト、シューマッハは無理やりコースに戻り次の右コーナーでヒルがシューマッハのインを突くが、シューマッハはアウトから被せて両者激突、シューマッハは車体の右半分が浮き上がりコントロールを失い、そのままコース脇のタイヤバリアに直行して激突した。ヒルも左フロントサスペンションを破損し、ピットへ戻るがそこでストップした。この結果2人ともリタイアし、初のワールドチャンピオンはシューマッハに奪われたが、シューマッハは激しい非難を受けることとなった。 1995年は4勝7ポールポジションを獲得したが、決勝ではマシントラブルや他マシンとの接触、自分自身とチーム戦略のミスなどが重なり、ポイントを取れない展開となった。 スペインGPではゴール直前リタイア(結果は完走扱いの4位)。モナコGPでは桜井淑敏をもってして「プロストをも凌ぐ」という走りでポールポジションを獲得するも、決勝では1ストップ作戦をとったシューマッハに逆転負けで2位に終わった。イギリスGPとイタリアGPではチャンピオン争いをしているシューマッハに追突して両者リタイアとなった。イタリアGPではレース後に1戦執行猶予付き出場停止処分を受けた。ドイツGPとヨーロッパGPと日本GPでは単独スピンでリタイア(ドイツはパトリック・ヘッドが「原因はリアのジョイント磨耗」と発表)。後半戦はサスペンションを改良したFW17Bを投入するも、チームメイトのデビッド・クルサードに4戦連続ポールポジションを奪われる場面もあり、最終的にはシューマッハの2年連続チャンピオン獲得を阻止できなかった。 これについてヒルは「ウィリアムズは勝つ為なら手段を選ばないチームではなかった」「ベネトンは実質的にミハエル・シューマッハーのワンマンチームだから、彼を徹底的にマークすれば当然勝機は増す。でもウイリアムズはそう言う戦い方を選ばない矜持を持っていた」と当時を語っている。
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