ソニー単独でのプロジェクト再始動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:00 UTC 版)
「PlayStation (ゲーム機)」の記事における「ソニー単独でのプロジェクト再始動」の解説
1992年6月24日のソニーの経営会議で、ゲーム事業への進出の是非が議論になり、大半の役員が反対意見を投じる中、経緯説明のために会議に参加した久夛良木が、「我々は本当にこのまま引き下がっていいんですか。ソニーは一生、笑いものですよ」と食ってかかり、試作品はほぼ出来上がっている事を公表。最終的に大賀が久夛良木に「そんなに言うならやってみろ!」と叫び、「DO IT!」と声を張り上げながら机を叩いた事でゴーサインを出し、ゲーム事業への進出を決断した。 なお、大賀はプレイステーション製作にあたり、社内のコンセンサス形成のみならず、ゲーム機製作自体にも深く関わっており、業界標準とも言える任天堂型のコントローラからの脱却を図るグリップ型のコントローラーを作るように指示し、何度もダメ出しをしている(本体・コントローラーのデザインは後藤禎祐が担当)。後藤禎祐がデザインの依頼を受けた時期は、細かな仕様だけでなく基板の大きさも決まっていなかった。本体を真上から見ると、四角に丸がついたシンプルな構成である。後藤氏は"熊さんの顔"と言って笑うが、このわかりやすさもソニーらしさの重要なファクターとなる。「ソニーらしさは、無駄な造形に入り込んでいかない。それは飽きてしまう原因になったりするので長続きしないんです。シンプルな形、クリーンなイメージ。そういう媚びないデザインだと思う。中身の機能を素直に表していけば、必ずシンプルで飽きのこないいいモノができるだろうと、僕は昔からそういうデザインポリシーでやってきました。」と述べている。 また盛田昭夫もゲーム事業のプレゼンを聞いた後、久夛良木の手を握って「これはおもしろい。こういうビジネスを望んでいたんだ」とチームを激励したという。ただ後述の通り、盛田は「プレイステーション」という名前を再検討するよう指示した(その後盛田は病に倒れた。内海州史は、あのまま盛田が健在であれば「プレイステーション」の名称は変わっていたかもしれないと記している)。 1992年夏から正式に「PS-X」プロジェクトが立ち上がり、1993年11月16日にソニーの技術者と株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントのコンピュータゲーム製作部門のスタッフら65人で構成される株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントが設立。1994年5月10日に「PS-X」と呼ばれていたマシンの正式名称を「プレイステーション」と発表した。同時にコンピュータグラフィックで描かれたデモ映像を会場で流し、本体のモックアップを展示した。本来、プレイステーションはスーパーファミコン互換のCD-ROMゲーム機で使われる予定だった名称であり、これを流用したものである。頓挫した商品と同一名は縁起が悪いという意見もあったが、既に全世界ベースで商標権を登録しており、新しい商標にするには調べるだけで半年かかるため、そのまま同一のプレイステーションの名称が採用された。1994年11月にプレイステーションの価格を39,800円、発売日は1994年12月3日と発表した。
※この「ソニー単独でのプロジェクト再始動」の解説は、「PlayStation (ゲーム機)」の解説の一部です。
「ソニー単独でのプロジェクト再始動」を含む「PlayStation (ゲーム機)」の記事については、「PlayStation (ゲーム機)」の概要を参照ください。
- ソニー単独でのプロジェクト再始動のページへのリンク