スペイン軍のペンサコーラに向かう航海
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「ペンサコーラの戦い (アメリカ独立戦争)」の記事における「スペイン軍のペンサコーラに向かう航海」の解説
ガルベスとホセ・カルボ・デ・イラサバル海軍大佐が指揮するスペイン艦隊は2月13日に約1,300名を乗せてハバナを出港した。この部隊の中には混血かつ解放アフリカ系キューバ人の民兵も含まれていた。ガルベスはニューオーリンズとモービルからも援軍を派遣するよう命令していた。3月9日にペンサコーラ湾の外側に到着し、湾を守っている防波島であるサンタロサ島に幾らかの部隊を上陸させた。この島には防衛措置が取られていないことが分かると、そこに大砲を上げて据えさせ、湾の中のイギリス艦船を追い出すために使われた。 前年のモービル攻略のときもそうだったが、湾内にスペイン艦船を進ませるのは困難だと分かった。艦船数隻の喫水を上げるために物資をサンタロサ島に陸揚げさせたが、先導艦のサンラモン(大砲64門搭載)が海峡を抜けようとして座礁した後は、艦隊司令のカルボが、それは危険でありイギリス軍の大砲が湾口にねらいをつけていると言って、如何なる艦船も海峡を進むことを拒んだ。 ガルベスはルイジアナ総督としての権限を使ってルイジアナから来た艦隊の艦船を徴発することにした。ガルベスタウンに乗船し、3月18日に海峡を通過させて湾内に入った。イギリス軍の砲撃も効果が無いなかを、他に3隻のルイジアナの艦船が続いた。カルボに海峡の詳細に関する情報を送った後に、その指揮下にある艦長達全てが海峡通過を主張し、翌日には通過した。カルボはその任務であるガルベスの侵略部隊を送り届けることは完了したと主張し、サンラモンでハバナに戻った。 3月24日、スペイン軍と民兵は作戦の中心に移動し、サンタロサの部隊はモービルから来た部隊と合流した。4月の第1週、ペンサコーラの防御に関する偵察が行われた。市内から最も遠い堡塁は半月堡(クレセント砦)だった。次にソンブレロがあり、ジョージ砦と続いていた。スペイン軍は宿営地を建設し、包囲戦のための大がかりな準備を始めた。数百名の工兵や労働者が戦場まで物資や武器を運んだ。続いて塹壕や掩蔽壕を掘り、方形堡を作り、イギリス軍のカノン砲、葡萄弾砲、榴弾砲および迫撃砲の絶え間ない砲撃から守るための掩蔽された道路を建設した。 4月19日に大艦隊が湾に向かって来ており、はじめはイギリス軍の援軍と考えられたので、準備作業が中断された。それら艦船はハバナからのスペインとフランスの連合艦隊であり、それぞれホセ・ソラノ・イ・ボテとド・モンティユ男爵フランソワ・アイマールが指揮し、陸軍元帥のフアン・マヌエル・デ・カヒハルを乗せて来ていた。イギリス軍の戦隊がサンアントニオ岬近くで視認されたという報告がハバナにもたらされ、この艦隊がペンサコーラ防衛軍を支援するためのものという怖れがあったので、 ガルベスの援軍部隊として急行して来たものだった。スペイン艦隊が1,700名の乗組員と1,600名の兵士を運んできたので、スペイン軍の総勢は8,000名になった。この部隊を上陸させた後、ソラノはガルベスを支援するために留まることに決め、両名は密接な連携を取った。
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