スペイン進撃とは? わかりやすく解説

スペイン進撃 (1812年-1813年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:09 UTC 版)

アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「スペイン進撃 (1812年-1813年)」の解説

ウェリントン伯爵1812年6月13日より5万のイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍率いてアゲダ川(スペイン語版)を渡河し、スペイン進撃を開始したイギリス軍サラマンカ入りフランス軍ドウロ川挟んで対陣した7月22日マルモン元帥率いフランス軍が、イギリス軍右翼包囲しようと動いた結果フランス軍防衛手薄になるというチャンス生まれた。この報告受けた時、ウェリントン伯爵食べていたチキン放り捨てて自ら伝令となって義弟エドワード・パクナム(英語版将軍のもとへ行き、彼が指揮する第3師団英語版)に攻勢をかけさせた。 こうしてはじまったサラマンカの戦いで、パクナム率い第3師団はジャン・ギヨーム・バルテルミー・トーミエール(フランス語版将軍率いフランス軍師団半壊させ、ウェリントン伯爵第4師団英語版)と第5師団英語版)を率いてフランス軍中央攻勢をかけ、アントワン・ルイ・ポポン(フランス語版)のフランス軍歩兵部隊潰走させ、ジョン・ル・マルシャン(英語版率いイギリス軍騎兵隊追撃をかけてポポンの軍を壊滅させた。負傷して戦線離脱したマルモン元帥に代わってフランス軍司令官となったベルトラン・クローゼル(フランス語版将軍ウェリントン伯爵攻撃起点である丘陵狙ったが、ウェリントン伯爵はそこに3個師団予備として配置しており、これを撃退することができた。ただスペイン軍がトルメス・アルバ川の防衛の任を放棄していたため、フランス軍全滅免れて撤退成功した フランス軍撤退許したとはいえサラマンカの戦いイギリス鮮やかな勝利となったフランス軍師団長一人マクシミリアン・セバスチャン・フォアウェリントン伯爵守備戦だけでなく攻勢にも長けていた事に驚き彼の用兵術をフリードリヒ大王のそれに例え称賛したウェリントン伯爵本人後年自分最大大勝利一つにこの戦い入れている。 この戦い勝利1812年8月12日スペイン首都マドリード占領することに成功した。この功績ウェリントン侯爵Marquess of Wellington)に叙せられた。また9月スペイン連合軍最高司令官就任しスペイン軍指揮正式に任せられた。 同月マドリードから4個師団率いて北上してブルゴス市を包囲した。しかしブルゴスフランス軍守備堅く落とすことができなかった。フランス軍マドリードへの再攻勢計画している事を知ると、ウェリントン侯爵何のためらいもなく、マドリード放棄して全軍ポルトガルまで撤退させた。これが半島戦争での最後撤退だった。この撤退は兵たちには不満が多かったものの、ポルトガル越冬することによって兵士たち生活環境の改善、軍再編成はしやすかった1813年1月に第33歩兵連隊英語版連隊長改め王立近衛騎兵連隊英語版連隊長任じられ3月にはガーター勲章授与されている。

※この「スペイン進撃 (1812年-1813年)」の解説は、「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の解説の一部です。
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