スペイン進撃 (1812年-1813年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「スペイン進撃 (1812年-1813年)」の解説
ウェリントン伯爵は1812年6月13日より5万のイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍を率いてアゲダ川(スペイン語版)を渡河し、スペイン進撃を開始した。イギリス軍はサラマンカに入り、フランス軍はドウロ川を挟んで対陣した。 7月22日、マルモン元帥率いるフランス軍が、イギリス軍右翼を包囲しようと動いた結果、フランス軍の防衛が手薄になるというチャンスが生まれた。この報告を受けた時、ウェリントン伯爵は食べていたチキンを放り捨てて自ら伝令となって義弟エドワード・パクナム(英語版)将軍のもとへ行き、彼が指揮する第3師団(英語版)に攻勢をかけさせた。 こうしてはじまったサラマンカの戦いで、パクナム率いる第3師団はジャン・ギヨーム・バルテルミー・トーミエール(フランス語版)将軍率いるフランス軍師団を半壊させ、ウェリントン伯爵も第4師団(英語版)と第5師団(英語版)を率いてフランス軍中央に攻勢をかけ、アントワン・ルイ・ポポン(フランス語版)のフランス軍歩兵部隊を潰走させ、ジョン・ル・マルシャン(英語版)率いるイギリス軍騎兵隊が追撃をかけてポポンの軍を壊滅させた。負傷して戦線離脱したマルモン元帥に代わってフランス軍司令官となったベルトラン・クローゼル(フランス語版)将軍はウェリントン伯爵の攻撃の起点である丘陵を狙ったが、ウェリントン伯爵はそこに3個師団を予備として配置しており、これを撃退することができた。ただスペイン軍がトルメス・アルバ川の防衛の任を放棄していたため、フランス軍は全滅を免れて撤退に成功した フランス軍の撤退を許したとはいえ、サラマンカの戦いはイギリスの鮮やかな勝利となった。フランス軍師団長の一人マクシミリアン・セバスチャン・フォアはウェリントン伯爵が守備戦だけでなく攻勢にも長けていた事に驚き、彼の用兵術をフリードリヒ大王のそれに例えて称賛した。ウェリントン伯爵本人も後年自分の最大の大勝利の一つにこの戦いを入れている。 この戦いの勝利で1812年8月12日にスペイン首都マドリードを占領することに成功した。この功績でウェリントン侯爵(Marquess of Wellington)に叙せられた。また9月にスペイン連合軍最高司令官に就任し、スペイン軍の指揮も正式に任せられた。 同月、マドリードから4個師団を率いて北上してブルゴス市を包囲した。しかしブルゴスのフランス軍の守備は堅く落とすことができなかった。フランス軍がマドリードへの再攻勢を計画している事を知ると、ウェリントン侯爵は何のためらいもなく、マドリードを放棄して全軍をポルトガルまで撤退させた。これが半島戦争での最後の撤退だった。この撤退は兵たちには不満が多かったものの、ポルトガルで越冬することによって兵士たちの生活環境の改善、軍再編成はしやすかった。 1813年1月に第33歩兵連隊(英語版)連隊長改め王立近衛騎兵連隊(英語版)連隊長に任じられ、3月にはガーター勲章を授与されている。
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