スペイン・ポルトガル国境の争奪戦とは? わかりやすく解説

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スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:09 UTC 版)

アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年)」の解説

つづいてウェリントン子爵スペイン進撃のため、ポルトガル・スペイン国境付近要塞シウダ・ロドリーゴバダホスアルメイダ奪還作戦開始したマッセナ元帥率いフランス軍急ピッチで再編成済ませアルメイダ包囲するブレント・スペンサー(英語版将軍率いイギリス軍第1師団英語版に対して攻勢出てきた。しかし1811年5月11日のフエンテス・デ・オニョーロの戦い英語版)の激戦の末にフランス軍サラマンカ押し戻すことに成功した。この勝利によりアルメイダ要塞奪還したが、フランス軍防衛部隊には撤退許してしまった。 並行してウィリアム・ベレスフォード(英語版少将率いるイギリス・ポルトガル連合軍バダホス要塞攻略英語版)を開始したが、スールト元帥率いフランス軍援軍駆け付けてきて、両軍5月16日アルブエラの戦い衝突したウェリントン子爵戦場に間に合わず、また甚大な死傷者出た激戦となったスールト退却した後、バダホス要塞攻略再開したが、損害大きく結局ポルトガルまで撤退することを余儀なくされた。1811年7月31日大将昇進した1811年の冬の間、軍の増強休息補給確保にあたり、シウダード・ロドリゴとバダホス攻略準備進めた1812年に入るとただちにシウダード・ロドリゴ攻略目指し出陣し1月9日には同市を占領しオーギュスト・マルモン元帥率いフランス軍激戦の末に退けた。 この戦い直後1812年2月ウェリントン伯爵Earl of Wellington)に叙せられた。 その後バダホス攻略目指し1812年3月から4月にかけてバダホス戦い英語版)に及んだ勝利してバダホス占領成功したものの、やはり激戦となり、甚大な死傷者がでた。戦死者大量に横たわる戦場視察したウェリントン子爵は涙を流しながら「政府工兵隊地雷工兵隊をもっとたくさん送っていてくれたら、勇敢な兵士たちはもっと容易く敵の防衛拠点制圧し任務達成していたはずだ」と述べて政府批判したという。

※この「スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年)」の解説は、「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の解説の一部です。
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