スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年)」の解説
つづいてウェリントン子爵はスペイン進撃のため、ポルトガル・スペイン国境付近の要塞シウダ・ロドリーゴ、バダホス、アルメイダの奪還作戦を開始した。マッセナ元帥率いるフランス軍も急ピッチで再編成を済ませ、アルメイダを包囲するブレント・スペンサー(英語版)将軍率いるイギリス軍第1師団(英語版)に対して攻勢に出てきた。しかし1811年5月11日のフエンテス・デ・オニョーロの戦い(英語版)の激戦の末にフランス軍をサラマンカへ押し戻すことに成功した。この勝利によりアルメイダ要塞を奪還したが、フランス軍の防衛部隊には撤退を許してしまった。 並行してウィリアム・ベレスフォード(英語版)少将率いるイギリス・ポルトガル連合軍はバダホス要塞攻略(英語版)を開始したが、スールト元帥率いるフランス軍が援軍に駆け付けてきて、両軍は5月16日にアルブエラの戦いで衝突した。ウェリントン子爵が戦場に間に合わず、また甚大な死傷者が出た激戦となった。スールトが退却した後、バダホス要塞の攻略を再開したが、損害が大きく結局ポルトガルまで撤退することを余儀なくされた。1811年7月31日に大将に昇進した。 1811年の冬の間、軍の増強・休息・補給の確保にあたり、シウダード・ロドリゴとバダホス攻略の準備を進めた。1812年に入るとただちにシウダード・ロドリゴ攻略を目指して出陣し、1月9日には同市を占領し、オーギュスト・マルモン元帥率いるフランス軍を激戦の末に退けた。 この戦いの直後の1812年2月にウェリントン伯爵(Earl of Wellington)に叙せられた。 その後、バダホス再攻略を目指し、1812年3月から4月にかけてバダホスの戦い(英語版)に及んだ。勝利してバダホス占領に成功したものの、やはり激戦となり、甚大な死傷者がでた。戦死者が大量に横たわる戦場を視察したウェリントン子爵は涙を流しながら「政府が工兵隊と地雷工兵隊をもっとたくさん送っていてくれたら、勇敢な兵士たちはもっと容易く敵の防衛拠点を制圧して任務を達成していたはずだ」と述べて政府批判したという。
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