ルイジアナ総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 05:33 UTC 版)
「ベルナルド・デ・ガルベス」の記事における「ルイジアナ総督」の解説
七年戦争の結果、1763年のパリ条約でスペインはスペイン領フロリダをイギリスに譲り、かわりにフランス領ルイジアナのミシシッピ川以西をフランスから得た。ルイジアナはキューバ総監府の管轄する1州となった。ガルベスは1777年1月1日にスペイン領ルイジアナの総督に就任した。 当時スペイン植民地はイギリスの脅威にさらされていた。ガルベスはイギリスと独立戦争を戦っていたアメリカ大陸軍に協力し、ミシシッピ川経由でペンシルベニアまで大量の武器、弾薬、衣類、薬などの物資を大陸軍に届けた。またイギリス軍から逃亡してきたアメリカ移民を保護した。ガルベスはアメリカに74,000ドルを貸した。 最初スペイン本国はアメリカ独立戦争に中立を表明していたが、1779年6月21日にカルロス3世はイギリスに宣戦を布告した。ガルベスはミシシッピ川下流にあるマンチャクのFort Bute、バトンルージュのFort New Richmond、ナチェズのFort Panmureなどのイギリス基地を陥落させ、その功績によって師団将軍(当時のスペインでは少将に相当)に昇進した。それからキューバで軍備を強化し、イギリス領西フロリダの拠点であるモービルを1780年3月14日に、ペンサコーラを2か月の戦闘を経て1781年5月9日に陥落させた(ペンサコーラの戦い)。これによって西フロリダをスペインが制圧し、スペインは再びメキシコ湾の制海権を得た。1783年にガルベスはガルベス伯爵 (es:Condado de Gálvez) の爵位を与えられた。イギリスが南部の根拠地を失ったことは間接的にアメリカ独立戦争で大陸軍側に有利に働いた。 ガルベスはルイジアナの植民を奨励し、カナリア諸島から多くの移民を招いた。いくつかの新しい町を築き、中にはガルベスの名前を冠したガルベスタウン (Galvez, Louisiana) もある。
※この「ルイジアナ総督」の解説は、「ベルナルド・デ・ガルベス」の解説の一部です。
「ルイジアナ総督」を含む「ベルナルド・デ・ガルベス」の記事については、「ベルナルド・デ・ガルベス」の概要を参照ください。
ルイジアナ総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 03:01 UTC 版)
「アレハンドロ・オレイリー」の記事における「ルイジアナ総督」の解説
スペイン領になったルイジアナ植民地ではアントニオ・デ・ウジョアが初代の総督に任命されたが、1768年10月に現地のフランス人による反乱が起き、ニューオーリンズからスペイン当局を追放してしまった (Louisiana Rebellion of 1768) 。カルロス3世の命令により、翌1769年オレイリーはキューバで組織された艦隊を率いてミシシッピ川を遡行し、ニューオーリンズに上陸した。彼は反乱者を処刑し、ルイジアナをハバナ総監の支配下とし、フランス人による統治機構を解散し、キューバで行ったのと同様の軍隊・民兵組織の設立と要塞の改良を行った。オレイリーが制定した法体系は「Code O'Reilly」と呼ばれる。しかしながらオレイリーが厳格に処刑を行ったことから植民地の人々に反感を持たれ、1770年3月に罷免された。 1771年にスペインに帰国してルイジアナ遠征の成功を報告した。この功績によってオレイリーはオレイリー伯爵の爵位を与えられた。
※この「ルイジアナ総督」の解説は、「アレハンドロ・オレイリー」の解説の一部です。
「ルイジアナ総督」を含む「アレハンドロ・オレイリー」の記事については、「アレハンドロ・オレイリー」の概要を参照ください。
- ルイジアナ総督のページへのリンク