スッラとの戦いと最期
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「グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)」の記事における「スッラとの戦いと最期」の解説
紀元前83年、スッラはイタリア南部に上陸し、ローマに進軍した。このときカルボはプロコンスル(前執政官)権限でガリア・キサルピナの総督を務めていた。スッラの軍は実戦で鍛えられてはいたものの、その兵力は3-4万程度であったのに対し、両執政官の兵力は18万から20万に達していた。しかし理由は不明だが、両執政官は共同作戦を実施せずバラバラに戦い、そしてどちらも敗れた。それを知ったカルボはローマに戻り、スッラ側に寝返ってローマから脱出した元老院議員たちを国家の敵と宣言することを求めた。実際に名前が分かっているのはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスのみである。カルボのローマ滞在中にユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿が焼失した。これをスッラ派の放火とする見方もあるが、執政官あるいはカルボが指示したとの説もある。 スキピオ・アシアティクスとノルバヌスがスッラに大敗したため、翌年の執政官にはカルボとマリウスの息子である小マリウスが選ばれた。この結果にはクィントゥス・セルトリウスが反対した。セルトリウスはマリウス派の著名な指導者の一人であったが、おそらく自身が執政官になりたかったのであろう。カルボと小マリウスはセルトリウスをヒスパニアに派遣したが、マリウス派の最も有能な将軍が不在となることとなった。 年の初めから、両執政官は次の作戦に向けて積極的に準備を始めた。神殿の宝物を没収することで、莫大な戦費を調達することができた。戦争が終わった後でも、国庫には14,000リーブラの金と6,000リーブラの銀が残っていた(1リーブラは327g)。軍はマリウスの下で戦った退役兵士と、イタリア同盟都市の兵士で補充された。カルボはメテッルス・ピウスおよびグナエウス・ポンペイウスと戦うためにイタリア北部に行き、小マリウスはラティウムとカンパニアでスッラと戦った。 カルボのレガトゥス(副司令官)であったガイウス・アルビウス・カリッナスとガイウス・マルキウス・ケンソリヌスは作戦の初期段階で敗北した。さらに、南部での小マリウスの敗北を知ったカルボは、アリミヌムに撤退したが、その後エトルリアに転進した。そこでスッラの軍と遭遇する。クルシウムの戦いでは勝敗はつかなかったが、これはこの内戦におけるスッラの唯一の失敗と考えられている。その後、カルボはプラエネステで包囲されていた小マリウスを助けようと試み、ケンソリヌスの8個軍団とルキウス・ユニウス・ブルトゥス・ダマシップスの2個軍団を派遣したが、どちらも敗北した。 フィデンティアの戦いでは、カルボ自身がマルクス・テレンティウス・ウァッロ・ルクッルスに敗北した。カルボの下には未だ3万の軍があったが、カルボはアフリカ属州に逃れた。スッラはイタリアでの戦争を終了し、プロスクリプティオ(国家の敵)のリストの最初にカルボの名前を挙げた。スッラはポンペイウスにカルボを追わせ、パンテッレリーア島でカルボを捕縛した。 しかし、ポンペイウスは三度も執政官を務めたことのあるローマ人を拘束し、彼自身が座っていた椅子の前に立たせ、出席者の憤りと苛立ちのために、座ったまま尋問を行った。そしてカルボを連れ出し、死刑にするように命じた。死刑場に連れて行かれたカルボは、既に剣が抜かれているのを見て、腸の具合が悪いので少し用を足す時間がほしいと懇願した。 プルタルコス『対比列伝:ポンペイウス』、10. アッピアノスは、ポンペイウスが「すべての民衆の前でカルボを非難した」と書き、リウィウスは「死にあたって女のように泣き叫んだ」としている。ポンペイウスはカルボの首級をスッラに送った。
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