スッラ死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:20 UTC 版)
「ガイウス・ユリウス・カエサル」の記事における「スッラ死後」の解説
紀元前78年にスッラが死去したことでカエサルはローマへ帰還した。すると、同僚執政官と反目し、スッラが定めた護民官権限削減の復活や穀物法の撤回、没収された資産の返却などを訴え挙兵したマルクス・アエミリウス・レピドゥスはカエサルに参加を呼び掛けたが、カエサルはこれを断った。 当時ローマでは属州統治に現地民への脅迫や搾取・収賄を行う者が頻繁にいた。紀元前77年、カエサルは執政官経験者のグナエウス・コルネリウス・ドラベッラをこの罪で訴追した。共和政ローマでは私人訴追主義で、訴追者自らが裁判で相手側弁護士と戦うため、多数決で判決を下す審判人を説得するための高度な修辞学が求められ、訴追者は政敵や訴追によって名を売ろうとする若者、職業的訴追人などが主であった。 このドラベッラの告発に失敗し、復讐を恐れたカエサルは紀元前75年にロドス島へ赴き、キケロの師で 修辞学の権威として著名であったアポロニウス・モロンに師事した。彼には弁舌の才能もあったが、その努力を政治や軍事方面に向けた結果覇者となったため、キケロは他の雄弁家と比較することは避けたという この時カエサルはエーゲ海を船で渡っていたが、途中キリキアの海賊に囚われの身となった。海賊は身代金として20タレントを要求したが、カエサルは「20では安すぎる、50タレントを要求しろ」と海賊に言い放ち、その間海賊に対して恐れもせずに尊大に接するだけではなく、「自分が戻ったらお前たちを磔にしてやるぞ」と海賊に対し冗談すら言った。そして身代金が支払われて釈放されるとカエサルは海軍を招集し海賊を追跡、捕らえてペルガモンの獄につないだ。そしてアシア属州の総督に処刑するように命じるが、総督はこれを拒否して海賊を奴隷に売ろうとする。するとカエサルは海路を引き返して、冗談でほのめかした通りに自分の命令で海賊たちを磔刑に処したという。 紀元前73年、カエサルは死去したガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官)の後継神祇官に就任したと考えられている。
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