スッラ配下の俊英とは? わかりやすく解説

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スッラ配下の俊英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:47 UTC 版)

グナエウス・ポンペイウス」の記事における「スッラ配下の俊英」の解説

紀元前87年オプティマテス閥族派)のルキウス・コルネリウス・スッラ第一次ミトリダテス戦争指揮している間に、ローマ追放され執政官ルキウス・コルネリウス・キンナポプラレス民衆派)のガイウス・マリウス亡命から呼び戻し、軍を率いてローマへ侵攻したもう一人執政官グナエウス・オクタウィウスと共にローマ守っていたポンペイウスの父ストラボはこの時期死去したポンペイウス未だ若年であったことや、ポンペイウス一族による周到な用意もあって父に連座すると無くマリウスらの粛清から逃れることができた。その後ポンペイウスローマへ戻った際に略奪の罪で告発されポンペイウスの妻・アンティスティア(最初の妻)の父がプラエトルであったこともあって免れることが出来たものの、以降しばらくの間故郷ピケヌム雌伏の時期を過ごす。 紀元前83年ミトリダテス戦争勝利したスッラは、マリウスキンナ亡き後ローマ制圧するためにギリシアから軍を率いて戻ってきた。ポンペイウスピケヌムキンナ有力者追放し自費募兵した3個軍団率いてスッラの軍へ合流したスッラポンペイウス参戦が、キンナ派のプロコンスル、グナエウス・パピリウス・カルボ有するローマ軍団への対応に有用であったこともあり、ポンペイウス合流歓迎したという。紀元前82年スッラローマ市制圧しプロスクリプティオに基づく密告導入してポプラレス多く殺害したスッラ終身独裁官ディクタトルとなった後、ポンペイウス繋ぎ止めるため、アンティスティアと離婚してスッラ4人目の妻カエキリア・メテッラとその元夫マルクス・アエミリウス・スカウルスの間の娘アエミリア(Aemilia Scaura)と結婚するよう強要しポンペイウスは従わざるを得なかった。 スッライタリア本国落ち着いたところで、シキリア属州アフリカ属州逃れて未だ残るポプラレス征討ポンペイウス命じたが、紀元前82年の内にシキリアはあっさりとポンペイウスの手落ちシキリア当時ローマにとって重要な穀倉であり生命線であった)、カルボ及びポプラレス多数捕らえて殺害した紀元前81年にはヌミディア逃れていたグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの兄)を殺害、ドミティウスに組したヒアルバスを捕虜としてヒエムプサル2世ユバ1世の父)をヌミディア王に据えた。 これらの功績を以てポンペイウスは「インペラトル」と呼ばれスッラからは「マグヌス」と評された(ポンペイウススッラ生存中は「マグヌス」と名乗ることはなく、スッラ死去後に使うこととなる)。ポンペイウスはシキリア・アフリカでの勝利を以て凱旋式挙行できるようにスッラ申し出て当初難色示したスッラであったがこれを認めた25歳での凱旋式スキピオ・アフリカヌス上回る最年少記録であった紀元前78年スッラ死亡した時、ポンペイウスクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスと共にスッラ国葬主張し軍隊支持もあってこれが認められた。

※この「スッラ配下の俊英」の解説は、「グナエウス・ポンペイウス」の解説の一部です。
「スッラ配下の俊英」を含む「グナエウス・ポンペイウス」の記事については、「グナエウス・ポンペイウス」の概要を参照ください。

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