スッラ配下時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:59 UTC 版)
「マルクス・リキニウス・クラッスス」の記事における「スッラ配下時期」の解説
ポントス王ミトリダテス6世との間で一応の和約が成立したスッラは、紀元前84年にローマへと進軍を始めた。クラッススはスッラの支持者でアフリカ属州を根拠地としたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスのもとに身を寄せたが、やがて仲違いしてスッラの許へと向かった。スッラはクラッススに一軍を与えて、マリウス派の残党討伐に向かわせた。その際にクラッススは護衛兵をつけて欲しいと頼んだが、スッラに「お前の父や兄弟が討たれた敵を我々は攻めているのだ」と返され、クラッススは発奮したと伝わっている。 紀元前82年、ポプラレスの残党と敗残のサムニウム人がスッラを打倒するべくローマへ進撃した時、スッラは軍の右翼の指揮をクラッススに任せた。このポルタ・コッリナの戦い(ドイツ語版)で、クラッススが率いた右翼はサムニウム軍を撃破し、スッラの勝利に貢献した。 スッラ配下の武将として地盤を作ったクラッススの次の関心はマリウス派によって収奪された家族の財産を再建することであった。スッラによるプロスクリプティオにより、ポプラレスや政敵の財産が全て没収されて競売に付した際に、クラッススはこれらの財産を買い叩いた。 また、クラッススは銀山や高価な土地を多数保有するようになったが、中でも優秀な奴隷を多く抱えてそれらの経営を任せたことで、一層の蓄財が可能となった。更に、火事になった家の周辺の隣家が延焼を恐れて持ち家や建物・土地を手放すのをいち早く情報を仕入れた上でそれらを買い占め、その後に自らが雇っていた建築に携わる奴隷にそれらを壊させたためにローマの大部分がクラッススの所有物になったとされる。 紀元前78年にスッラは死去したが、上述のように多くの富を得たクラッススはローマ政界での有力者の1人に数えられるまでとなった。財産を形成したクラッススの次の関心は政治キャリアを重ねることであった。スッラに近い派閥にいたこと、ローマで最も裕福であったこと、コンスルやプラエトル出身者を多く持つ一族の出身であったことからも有利な立場であった。ただし、同じスッラの配下で多くの軍功を挙げて、スッラから「マグヌス(偉大なの意)」とも称されたグナエウス・ポンペイウスに比べると、クラッススの軍功が見劣りする点は否めなかった。
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