スウィンドン 1864年 - 1877年
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「ジョセフ・アームストロング」の記事における「スウィンドン 1864年 - 1877年」の解説
1864年にグーチは機関車総監督の地位を辞任し、アームストロングが彼の代わりを務めるように昇任した。グーチの機関車に関する業務に加えて、アームストロングは客貨車についても責任を負うことになり、これを反映して職名が機関車・客貨車総監督となった。グーチと同様に、彼の職務は北部局も含んだものとなったが、北部局については弟のジョージに権限を委譲していた。 スウィンドンに着任すると、アームストロングは熱意をもって彼の厄介な業務に取り組み始めたが、その熱意は結果的に彼の頑健な身体を持ってしても健康を害するほどのものとなった。ヴィクトリア朝期の特徴的な家長らしく、彼は勤勉で厳格で、不正や堕落に対して不寛容で、一生懸命働く者に対しては寛容で博愛を示した。鉄道における業務に加えて、スウィンドンにおける毎日の暮らしにも深くかかわった。彼はメソジストにおける在家の説教師であり、一方でまたスウィンドンには各宗派の教会を確保しようとした。彼はグーチが創立した機械工学校の校長であり、アームストロング在任中にその学校は大幅に拡大された。また1864年から死ぬまで、スウィンドン新町委員会の議長を務めた。また医療基金委員会、病人基金委員会、町の水道施設、コテージ病院とその共済組合などにも関わった。 1860年代から1870年代は、グレート・ウェスタン鉄道の拡大の時期であった。1846年に軌間委員会が広軌での路線拡大に否定的な結論を出して以降、ほとんどの新線は標準軌のみで敷設された。アームストロングの職務には、膨大な広軌機関車群の保守があり、その大半は更新か代替の必要があった。さらに1868年からは急速に拡大する標準軌や三線軌条の路線向けに運用する大量の標準軌の機関車を設計する必要もあった。広い目で見れば、彼は会社の全車両と、グレート・ウェスタン鉄道網全体に渡って働く13,000人の従業員の仕事と生活状態に対して責任を負っていた。 1877年頃から心臓病の兆候が見え始めていた。彼は仕事を止めたがらなかったが、結果的にスコットランドに療養に出かけることに同意した。しかしこれはあまりに遅く、北への旅行の途中マトロック・バースにおいて心臓発作で亡くなった。6月7日に行われた彼の葬儀はスウィンドンの歴史でももっとも記録に残るもので、工場からは2,000人の従業員が参列し、さらにウルヴァーハンプトン工場からも100人が、そしてさらに多くの人々がグレート・ウェスタン鉄道全体から集まった。外部からの参列者もおり、たとえばブライトンからウィリアム・ストラウドリー(英語版)も参列している。すべて合わせると6,000人にも及ぶ人々がセント・マークス教会を埋め尽くした。教会の東側には今でも、アームストロングと彼の2人の息子を記念するオベリスクを見ることができる。
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