ジルノルマン氏の一家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 23:16 UTC 版)
「レ・ミゼラブル」の記事における「ジルノルマン氏の一家」の解説
リュック=エスプリ・ジルノルマン (Luc-Esprit Gillenormand) マリユスの母方の祖父にあたり、母親の違う2人の娘がいる(次女はすでに死去)。フィーユ・ドゥ・カルヴェール通り6番地の邸宅に住んでいる、2番目の妻に財産のほとんどを食いつぶされたブルジョワ。90歳を過ぎても、物言いも身のこなしもしっかりしている。洗礼名のリュック=エスプリとは「使徒ルカ・聖霊」という意味をもつ。 好色家の社交人として知られ、ふたりの妻とたくさんの情婦を持っていたが、現在は50歳過ぎの長女ジルノルマン嬢 (mademoiselle Gillenormand l'aînée) や、バスク (Basque) を初めとする召使、全員まとめてニコレット (Nicolette) と呼んだ女中とともに暮らしており、元女中のマニョンに「息子」2人の「養育費」を支払っている。 1789年(=フランス革命)を心底憎み、ナポレオンの下で働く次女の夫ポンメルシーを勘当同然に扱うなど、生粋の王党派のため、後にボナパルティズムに走ったマリユスとも対立してしまう。 しかし、心の底からマリユスを可愛がっていた彼は、六月暴動をきっかけにマリユスと和解する。さらに自身の政治上の主張も捨て、マリユスが男爵と名乗ることを許した。しかも、一度反対したコゼットとの結婚を快諾し、彼女の美貌と境遇を心から絶賛した。 彼の存在には、ユーゴーの母ソフィア・トレヴュシェが投影されているといわれている。ソフィアは王党派であり、それゆえ夫であるジョセフ・レオポルドと仲違いを起こすことが多かった。心の底からユーゴーの才能を認め、心の底から彼を愛する一方、彼の妻アデールとの結婚は猛反対している。 ジョルジュ・ポンメルシー (Georges Pontmercy) ナポレオン軍の少佐。王党派のジルノルマン氏の次女と結婚し、1810年にマリユスの父となる。ワーテルローの戦いの最中に手柄を立て、ナポレオンから直に陸軍大佐に昇進し、男爵の地位を貰ったが、戦後政府に無効にされる。ワーテルローで重傷を負い、死にかけたところを「軍曹」テナルディエに「救われ」、彼を命の恩人であると思う。同時期に妻を失い、義父ジルノルマン氏にマリユスと会うことを禁じられた。しかし、伯母に連れられて教会へ礼拝に来るマリユスをじっと見守り続けた。 その後、ヴェルノン (Vernon) の橋の近くに家を構え、セーヌ川沿いに美しい庭園を築く日々を送るが、1827年、肺炎を患い、17歳になったマリユスが自宅にやって来る直前に、一通の遺書を残してこの世を去る。 彼のモデルとなった人物は、ユーゴーの父ジョセフ・レオポルド・シジスベール・ユーゴーであるといわれている。ジョセフ・レオポルドはナポレオン1世のもとで軍人として戦い続け、スペイン貴族の資格まで与えられた有能な男であった。しかし、戦後政府によって名誉を剥奪され、一介の大隊長に過ぎなくなってしまう。マリユスがジョルジュと離れて暮らしたように、ユーゴー自身も成長するまではジョセフ・レオポルドと離れて暮らすことがほとんどだった。しかし、ユーゴーが世に認められてからは付き合いが増え、ボナパルティズムや父の生き方を理解していくようになる。 テオデュール・ジルノルマン(Théodule Gillenormand) ジルノルマン氏の大甥(甥の息子)で、マリユスのはとこにあたる陸軍中尉 (lieutenant)。槍騎兵。美しい青年将校で、普段は家を離れ、兵営で暮らしている。長女のジルノルマン嬢にたいそう気に入られているが、見識が軽薄でうぬぼれ屋で礼儀がなっていないため、大伯父のジルノルマン氏には嫌われている。また、コゼットからもあまり良く思われていない。 マリユスと顔を合わせたことが一度もなかったが、ジルノルマン嬢の頼みでマリユスを偵察することになる。
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