ジョーダン~プロストへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 20:23 UTC 版)
「ハインツ=ハラルド・フレンツェン」の記事における「ジョーダン~プロストへ」の解説
翌1999年に移籍したジョーダンは国際F3000時代にも所属している旧知のチームで、この年のマシンは常に表彰台を争える速さと信頼性を備えており、戦える環境が揃っていた。開幕戦で2位表彰台を獲得し好調なスタートを切り、雨中の乱戦となったフランスGPでは、巧みな燃費走行とピット戦略でワールドチャンピオンのミカ・ハッキネンを破って勝利。イタリアGPでもフロントローから自身初のドライコンディションでの勝利を挙げ2勝目(通算3勝目)を挙げ、チャンピオンを射程にとらえた。そして、ヨーロッパGPでポールポジションを獲得し、レースもリードし優勝も見えていたが電気系トラブルによりリタイアとなったため、タイトル獲得の可能性はここで途絶えた。それでも、予選、決勝共にエースドライバーの元チャンピオンのチームメイト・ヒルを凌駕(予選14勝2敗、決勝13勝2敗1分、ポイント54対7)し、優勝2回も含めた表彰台6回とポールポジション1回を獲得し、終盤までチャンピオン争いに食い込む活躍を見せ、ハッキネン、アーバインに次ぐランキング3位を獲得した。 しかし、この年をピークにジョーダンは低迷し、新加入のヤルノ・トゥルーリの活躍もありフレンツェンの立場も微妙になっていった。2000年は、第2戦ブラジルGPと第15戦アメリカGPで2度の3位表彰台を獲得するにとどまり、11ポイントでランキング9位に終わった。2001年はシーズン前のテストおよび予選では好調を継続したが、マシントラブルや戦略ミスにより表彰台のチャンスを逃す結果となっていた。この年のドイツGP前にシーズン途中にも関わらず突如チームから解雇され、地元ドイツGPを走れずに終わった。その後、ジャン・アレジと入れ替わる形でプロストへ移籍することになり、ハンガリーGPから残りのレースに参戦した。当時のプロストチームは資金が底をついていたためフレンツェンは無給であったが、参戦チーム中唯一パワーステアリングを持たないAP04で奮戦し、ベルギーGPでは予選4位を獲得して周囲を驚かせる。 この解雇劇の経緯についてははっきりとした報道はなされていない。チームが翌2002年からホンダエンジンを搭載するにあたり、「ホンダとの契約条項に、佐藤琢磨を乗せる事があったため、フレンツェンを解雇せざるをえなくなった」とエディ・ジョーダンが語った事もあるぐらいで、詳細は不明である。一説として上がるのはフレンツェンが開発が進まないジョーダンのマシンに業を煮やし自費でパーツの改良を願い出てエディ・ジョーダンと揉めたと言う説もある。ただ、フレンツェン側は2002年までの契約があったにもかかわらず一方的に解雇されたとしてジョーダンを相手に賠償金を求める裁判を起こし、ジョーダン側はフレンツェンのパフォーマンスの欠如を主張するものの、最終的にフレンツェン側が勝訴しており、少なくとも契約を反故にして解雇したことが示唆されている。
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